「健康の秘訣」エペソ人への手紙 5:11~20

深谷教会主日礼拝聖霊降臨節第15主日礼拝2024年8月25日
司会:西岡義治兄
聖書:エペソ人への手紙 5章11~20節
説教:「健康の秘訣」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-458
奏楽:野田治三郎兄

説教題:「健康の秘訣」 エペソ人への手紙5:11~21 佐藤嘉哉牧師

 健康を守って行く。これは非常に大切なことですし、非常に難しいことです。WHO世界保健機構は、健康とは「身体的、精神的、社会的に完全な良好な状態」のことであると定義しています。この3つにはそれぞれの要素があります。「身体的な側面」には「身体症状・体力・抵抗力等」です。「精神的側面」には「精神症状・知的能力・満足度など」。「社会的側面」には「社会的役割・人間関係・社会の仕組み等」です。そしてこれらの側面は互いに関連し、1つの側面に区分できないような要素もあります。その1つを欠けていては健康とは言えないと言えます。というのも、この健康の由来は古代ゲルマン語の「無傷」にあります。つまりもともとは「欠けるところがない」という意味でつかわれていました。日本の憲法第25条の生存権にも次のような言葉があります。
 「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
 最近の社会を見てみたらどうでしょう。日本は長寿の国と言われ、他国と比較して健康的で公衆衛生もしっかりしているという印象や評価がされています。健康水準も高いでしょう。しかしこれは先ほど述べた3つの健康の側面の内の「身体的側面」のみを指しています。それ以外の「精神的側面」や「社会的側面」は度外視しています。そこにこそ目を向けて取り組むべきなのではないかなぁとは思うのですが、世の中はどちらかと言えば「身体的側面」に目が向いているように感じます。テレビで「〇〇を食べると血糖値を下げる!血圧を下げる!痩せる!」と言ったらスーパーからその食材が消えることが往々にしてあります。それが目に見える形で結果が出てこなくても、健康を手に入れるためなら何でもするという感情があるのでしょう。そりゃあ健康でいられるなら健康でいたいですよね。病気知らずで、誰からも羨まれるような体が与えられたらとどんなに思ったことでしょうか。先日閉幕したオリンピックを見ていると、本当に恵まれた健康的な体を持つアスリートたちがおり、その活躍に心を躍らせました。やはりその健康的な姿を見て、わたしたちは憧れを抱きます。旧約聖書におけるサウルとダビデが、民から王にふさわしいと評価を受けたのも、見るからに健康的な体で、美しい顔立ちをしていたからです。ではその逆を行く人はどうなってしまうのか。それは本日の聖書箇所エペソ人への手紙の宛先である、エペソ共同体の姿を見たらよくわかります。
 本日の聖書箇所には印象的な詞が書かれています。5章14節です。「眠っている者よ、起きなさい。/死人のなかから、立ち上がりなさい。/そうすれば、キリストがあなたを照らすであろう」。眠っている人…つまり気力がない…無気力な状態になっている当時のエペソの信徒への激励の言葉です。このエペソ人への手紙は、使徒パウロが書いたとされるパウロ書簡の中で最も後期に書かれたとされる手紙です。読めばこのエペソ人の共同体は迫害と内部分裂によって信仰が揺らいでいるような状況であったと理解できます。エペソ人がおかれていた状況は「身体的側面」、「精神的側面」、「社会的側面」のすべてが欠けています。そんな中で人は正常な判断はできないでしょう。その不健康極まりないエペソの共同体に対してパウロは「死者の中から、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照らすであろう。」と励まします。さらにパウロは「今は悪い時代だ」と言っています。これに対比する形で「賢い者のように歩き、今の時を生かして用いなさい」という言葉があります。神が与えてくださった時間という概念は、光と闇が交互に来ることで私たちは感じます。先の詞にもあるように、光に照らされることは神の祝福を指すものですから、時を生かして用いるとは神の祝福を生かして用いるということを指しているのです。「用いる」は聖書ギリシア語を直訳すると「買い取る」となるそうです。であるならば、「神から与えられている時を買い取りなさい」という意味にもなってきます。なんだか「苦労は買ってでもしろ」という言葉に通ずるものがあり、少々乱暴に思えてきます。しかし当時のエペソ人はその神から与えられている恵みを、愚かなものがお金を浪費するがごとく無駄にしてしまっていたということです。神からの祝福を無駄にしてしまうくらいなら、買ってでもその祝福を受けるように、賢く生きなおしなさいと言っているのです。
 人は時間と共に、健康に問題を抱えていきます。わたしもいずれはどのように健康を害していくのかはわかりません。長生きできるなら、健康を維持できるならと藁にも縋る思いで、健康に良い物と評価されたものを買い取ることもあるでしょう。しかしそれは本当に健康なのでしょうか。心は満たされているでしょうか?神の祝福を受けていると感じているでしょうか?わたしも「健康にいいから」という理由と、「深谷の暑さにやられないため」ということでサウナに毎週通っていました。しかしです。忘れもしません。7月23日に熱中症で倒れてしまいました。つまり健康というものはいつ如何なる時に害するのかはわからないということです。健康でありたいと願っていても、どれだけ健康に良いものを食べたり飲んだり行ったりしても、いずれ時が巡りくれば意味をなさないのかもしれません。そしてその健康が害されたら、無気力になってしまいます。
 しかしキリスト者はエペソ人へパウロが言ったことのように、希望を奮い立たせる言葉が聖書から与えられています。神の言葉が与えられるのです。神はその人に必要な糧を与え、励まし、救いへと導かれます。

「病者の祈り」という詩があります。これはニューヨークにある物理療法リハビリテーション研究所の壁に書かれていたものです。その詩をお読みしたいと思います。

大事を成そうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった
より偉大なことができるように 健康を求めたのに
よりよきことができるようにと 病弱を与えられた
幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の称賛を得ようとして 権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった
人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと 生命を授かった
求めたものはひとつとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは すべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で 最も豊かに祝福されたのだ

 この詩は誰が書いたのかわからないそうです。しかしこの詩は「身体的側面」の健康を失っても、神の祝福を受け懸命に生きる人の姿が現されています。苦悩と失望がこの作者にはあったでしょう。まさしくエペソ人のように。しかし神の祝福に気づいたとき、希望が与えられたのです。
 本日の説教題は「健康の秘訣」です。これを聞けば何か健康になるかもしれないという思いにさせてしまうような題でした。ごめんなさい。そうではないんです。キリスト教はご利益宗教ではありません。こうしたからと言って対等の物が与えられるわけではありません。詩のように願っているものとは真逆のものが与えられることだってあります。だから日本でキリスト教が広まりにくいのかもしれません。しかし神の祝福が私たちに注がれていることは事実です。健康を害してしまっている方にも、また看病をしている状況にある方にも、キリスト者はそうして希望が与えられているのです。だから立ち上がりましょう。キリストの光を受け、父なる神に感謝して、心を満たされながら歩んでいきましょう。

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