「さあ、いただこう」 コリント人への第一の手紙 11:23~29

深谷教会聖霊降臨節第11主日礼拝2024年7月28日
司会:斎藤綾子姉
聖書:コリント人への第一の手紙11章23~29節
説教:「さあ、いただこう」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-81
奏楽:野田治三郎兄

説教題:「さあ、いただこう」 コリント人への第一の手紙11:23~29 佐藤嘉哉牧師

 人はいずれ亡くなる。それは避けようのない事実です。それがいつ来るかは神のみぞ知ることであり、私たちはその神のご計画に心を向けて歩んでいます。人はこの世界を去る時、「確かにここに生きた」という証、記念を残したいと願います。写真などは特にそうですね。深谷教会でも先達の写真は大切に保管されており、毎年召天者記念礼拝で見ることができます。わたしはその方々と実際にお会いしたことはありませんが、その写真を通して語られる思い出によって出会っています。この方々全員が神と出会い導かれた。この恵みを共に味わいます。しかしその写真がない、遺品がない。生きた証すら残らないような状況があります。戦争と自然災害は特にそうです。広島や長崎の原子爆弾、東京大空襲、沖縄地上戦…予期せぬ形で人によって命を奪われ、生きた証すら残らない。自然災害もいつ起きるかわからず、水害はその生きた証ごと流してしまう。生きた証が残らない。そんなことがどんな状況でもあってはいけません。あってはならない状況が実際になってしまい、わたしたちは胸を痛めるのです。そしてこの理不尽な出来事を忘れないようにするため、またその犠牲となった人々を思い起こすために記念碑を建てるのです。
 わたしたちの主イエス・キリストも「生きた証」を奪われる状況にありました。当然のことですが、主イエスの生きた時代に写真などありません。石碑を建てるにしても相当な労力が必要です。何か書き物を残したわけでもありません。主イエスが実際に生きたという証は、物体として残っていません。主イエスが十字架で死に一度葬られたとされるエルサレムの「聖墳墓教会」も、「おそらくここに葬られたのだろう」という憶測によるもので、確実な証拠があるわけではありません。2000年以上もの時間が経過していては、大体の物は消えてしまいます。主イエスが生きた証は物体として残っていないのです。
 しかし主イエスは、自分が生きた証をこの世界に残すため、「食べる」という「ごく一般的な行為」の中に取り入れました。食事をする度に主イエスが生きていたことを思い起こす。一日に3回それを繰り返すくらい、主イエスの存在を私たちに伝えています。
 今日の聖書箇所はその主イエス・キリストが生きた証である「聖餐」をどのように守るかを制定する目的で、パウロが書いたものです。これは礼拝において聖餐式を行う際、必ず読み上げられる聖書箇所です。パウロは語ります。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主が来られる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」と。主の死を告げ知らせるということは、主が生きたということを告げ知らせることと同じ意味です。生がなければ死はありません。聖餐は主イエスが十字架にかかり死なれたことを記念することと、実際に生きていたことを記念することの両方の意味があるわけです。しかしなぜパウロはこのことをコリント人へ伝えていたのでしょうか。それはコリント教会が深刻な信仰的問題に直面していたからです。コリントにある信仰共同体はパウロが自らその地へ赴き、主イエスの福音を宣べ伝えて作ったものでありました。しかしパウロが離れた後にパウロよりも雄弁な人が現れ、内部で分裂を生み出すこととなったのです。3章では当時の共同体内の状況を語っています。お読みします。「あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。すなわち、ある人は『わたしはパウロに』と言い、他の人は『わたしはアポロに』と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させてくださるのは、神である。」
 このようにある通り、コリント教会は内部で分裂が起き、正常な信仰生活を守ることができない状況にありました。わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつくと言って自分の立場を表明し、神と主イエスの存在を見ることなく歩もうとしたのです。そして主イエスの生きた証である聖餐をないがしろにしていました。この状況は異常です。だからこそパウロは11章27節以降でこう述べているのであります。「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。」
 礼拝での聖餐に用いている式文の中でも、聖餐に与る際の心構えについて慎重に取り扱っています。何をもって「ふさわしい」とするのか、何をもって「わきまえている」とするのか。それは洗礼によるものであると言えるかもしれません。しかしいくら洗礼をわたしたちが受けていても、コリントの信徒たちと同じように肉の体で生きている限り罪も犯すし、迷うこともあるし、誘惑に負けてしまうこともあります。わたしたちがクリスチャンとして歩んでいく中で、神の前で「ふさわしい者」となれている時間より、なれていない時間の方が圧倒的に長いでしょう。そうするとクリスチャンであろうとなかろうと同じなのではないかと思います。そんな罪深いわたしたちが「この人は聖餐を受けるにふさわしい、自分をよくわきまえている」と判断するのは違うと思います。
 何をもって「ふさわしい」か、何をもって「わきまえている」かを判断するのは神であり、主イエスです。そのほかに何もありません。その神と主イエスの招きに応え、「イエス・キリストが確かに生きていた」という証の聖餐を共にいただくことはとても尊く、美しく、恵みに溢れたものであるはずです。その主の生きた証を身に帯びて歩むこと。証人となること。これこそが私たちクリスチャンとしての使命であるのです。だから「あなたはふさわしくない」「あなたは身の程をわきまえていない」と自分の杓子定規で図るのではなく、自分をよく確かめてその群れに集った方々と共に「さあ、いただこう」という交わりの喜びをもって歩み、真に生きていきたいと思います。

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