「そうは言われましても・・・」ローマ人への手紙14:10~23

深谷教会聖霊降臨節第10主日礼拝2024年7月21日
司会:悦見映兄
聖書:ローマ人への手紙14章10~23節
説教:「そうは言われても・・・」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-473
奏楽:野田周平兄

 説教題:「そうは言われましても…」 ローマ人への手紙14:10~23  佐藤嘉哉牧師

 私たちは強い存在でいたいと願います。それは健康であったり、社会的地位であったり、金銭的であったり…。日本社会においても強い存在は称賛の対象です。何か大きな記録を作った人や容姿が優れている人、お金を持っている人はもてはやされ多くの人が周りに付きまといます。一転して弱い立場にある人に対して日本はあまりにも冷たいと思います。日々の生活の難しい人、身体に重荷を担っておられる方…。その方々への周囲の視線は非常に厳しく、もし少しでも周囲と違うことをすると周囲から異常なまでのバッシング。先ほど言った強い存在である人であっても、一度のささいな過ちで周りから大きな批判を受けることだってあります。「炎上」という言葉を聞かない日はないほど、言葉で叩き合い、スマートフォンでその状況を撮影する。正直言ってわたしはこの状況は異常であり、見るに堪えないと思います。人の過ちをゆるすことができない。自分と意見が違う相手を受け入れることができない。そんな不寛容な時代になってしまったことを残念に思います。こんな不寛容な時代に誰が好きで生まれてくるでしょうか。この悩みが絶えない時代に生きる私たちに、今日の聖書箇所のパウロの言葉は語り掛けてきます。
 「それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。」「今後わたしたちは、互いにさばき合うことをやめよう。」「平和に役立つことや、互いの徳を高めることを、追い求めようではないか。」「あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。」パウロがローマにいる信仰共同体に呼びかけた力強い言葉の数々に、心が震えます。
 ローマ人への手紙14章1節には「信仰の弱い者を受け入れなさい」と書かれています。パウロは信仰において「強い者」と「弱い者」とをはっきり分けて書いています。そして読んでいるとローマ人は必然的に信仰において「強い者」側であると捉えられます。しかし何をもって「強い者」と「弱い者」とを分けているのでしょうか。「弱い者」とは誰の事でしょうか。本日の聖書箇所ではそのことについて断片的にしかわかりませんが、食べ物のことを伝えています。ユダヤ教の食べ物に関する規定を守ることは一見良いことのように思えますが、実はパウロの言う「強い者」は、規定によらず自由に飲み食いする人のことを指し、「弱い者」は規定による食べ物のみを食べる人のことを指します。主イエスの死と復活による新しい神との契約が与えられたことで、昔の規定を守る必要はなくなったからです。その新しい契約があるのに、主イエスはわたしの救い主であると告白したのに、昔の契約による規定から自分を解放していない人を、パウロは「信仰の弱い者」と言っています。この食べ物の規定に関することは、コリント人への第一の手紙8章から10章において詳しく書かれています。ローマ人への手紙は多数が「強い者」、つまり新しい契約に生きる人たちでありましたが、コリント人への手紙では多数が「弱い者」、つまり昔の契約に囚われたままの人たちに宛てたものでありますから、非常に丁寧に書く必要があったのです。この食べ物をめぐる規定はパウロの宣教、伝道において大きな意味を持っていました。
 今でこそクリスチャンは宗派によって違いはあれど、食べ物を自由に食べ、飲み物を自由に飲んでいます。この食べ物を食べるという人にとってとても大切であり基本である行為を、パウロは神への信仰の現れとして伝えています。6節では「日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。」とあります。そして続けて「食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。」とある通り、食べるにしても食べないにしても主のためであり、神に感謝していることに違いはないと言っています。パウロは決して食べない者に食べよと言っているわけではありません。彼が言いたいのは「どちらも主ために食べ、神に感謝しているのだから、受け入れなさい」ということです。パウロ自身が「食べる」側、即ち「強い者」の立場であるからこそ語ることのできる言葉です。
 10節以降の状況からすると、このローマ人たちはこの「弱い者」の人々に対して批判したり差別したりしていたのではないかと読み取れます。人が人を裁くことは罪深いことであると聖書に書かれていますが、幾度となくこの状況は出てきます。自分が大切にしていることや自分の思いと異なる考えを持つ人がいると、批判してしまうことは人間の性なのかもしれません。
 パウロの言葉を聞いたとき、わたしたちは素直にその言葉を受け入れることができるでしょうか。信仰が試されているように感じて「そうは言われましても…」といってしまうかもしれません。今日の説教題は「そうは言われましても…」です。この言葉はどちらの立場で言うかによって、同じ言葉でも続く内容は変わってきます。「強い者」であれば「そうは言われましても、彼らの考えを受け入れることなどできない。」というでしょう。また「弱い者」であれば「そうは言われましても、わたしたちは食べないと決めたのだから食べる人を受け入れることはできない。」というでしょう。しかしどの立場にいたとしても、わたしたちは結局最後に神のさばきの座に立つのですから、この違いの些細なものであるはずです。「強い者」も「弱い者」も結局恐れていることはこの「神のさばき」であるから、自分が救われるように正しい道を歩まなければと思うのであります。だからこそ自分の信仰を否定しているように思える相手がいると批判し、裁いてしまうのです。
 先に述べたコリント人への手紙での食べ物に関することでも、今日の聖書箇所における内容も何が言いたいかは共通しています。「何を食べ、何を食べないかなどを考えるのではなく、正しさ即ち義と、平和と、聖霊」を追い求めることが大切だと説いています。主イエス・キリストも「あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だからあすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイ6:25~34)という通りです。「強い者」も「弱い者」結局は人の価値観によって分けられたものであり、神の前では皆信仰に薄く、弱い者であるのです。聖書を通して与えられる戒めの言葉の数々を前に私たちは「そうは言われましても…」と言ってしまうことがあるでしょう。そう言いたくなりますよね。日本で生きているなら、2つの立場のどちらかに立たなければいけないことだって沢山あります。人が治める世の中はその悩みの中にあり、抜け出すことも困難であるでしょう。そしてその世の中の動きに逆らうような神と主イエスの言葉を受けると、素直になれずに同じ言葉を繰り返してしまいます。しかし私たちを正しい道に導くのも信仰であります。その信仰を守り続けるために教会があるのです。教会はすべての人に開かれたものであるので、どのような信仰の相違点があっても受け入れるという愛を持たなければなりません。何よりもこの教会を建て、この教会に私たちを招いてくださったのは神であり主イエス・キリストなのですから、わたしたちの常識や考えによって「そうは言われましても、この人はわたしたちと考えが違うので…」と言って裁くことがないようにしていかなければならないと思うのです。あなたと出会えたことが何よりもうれしい。その気持ちを大切にして、互いに愛を持って受け入れ合っていきたいと思います。

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