深谷教会聖霊降臨節第6主日礼拝2024年6月23日
司会:山口奈津江姉
聖書:エペソ人への手紙2章11~22節
説教:「わたしたちの救い」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-400
奏楽:野田治三郎兄
説教題:「私たちの救い」 エペソ人への手紙2章11~22節 佐藤嘉哉牧師
使徒パウロは主イエス・キリストを信じる人々を迫害する側から、主イエスを救い主と信じる側へと変えられた人物として有名で、今日のキリスト教会を形成するうえでこの上ない実績を残しました。その分多くの人々から命を狙われることにもなります。本日の聖書箇所はそんなパウロがローマで皇帝の裁判を待つために牢屋に投獄されていました。それ故に自分のことを「イエス・キリストの福音のための囚人」と表現し、エペソにいる共同体へ書簡を送りました。今日の聖書箇所を読む上で理解しておくべきことは、ユダヤ人と異邦人の区別についてです。この区別について、ある牧師がわかりやすく説明しています。一部を引用したいと思います。
異邦人とは誰のことか、という問題は次のようにまとめることができます。神は救いの約束をアブラハムとその子孫にお与えになり、イスラエルを御自分の民として選ばれました。このようにして神は人間の世界に近づき、イスラエルの民を諸国民にとっての祭司のような存在とし、アブラハムを通して世界の全国民を祝福しようと望んでおられることを、すでに旧約聖書が私たちに提示しているのは確かです。それにも関わらず、ユダヤ人と異邦人との間の区別ははっきりとした事実でした。ユダヤ人は真の神を礼拝し、モーセの律法を自分のものとして受け継いでいました。それに対して、他のすべての諸国民は正しい道を見失い、偶像を礼拝していたのです。ユダヤ人は自分たちの居住区に住むのが普通であり、異邦人のもとを訪れたり、彼らと共に食事をしたり、彼らと婚姻関係を結んだり、彼らと同じ宗教的な行事を施行したり、彼らと同じ神を礼拝したりはしませんでした。もちろん彼らの中には、周囲の環境に多かれ少なかれ同化していったユダヤ人もいました。しかし神を畏れるユダヤ人にとっては、異邦人から分離することを命に関わる問題と捉えていました。
ユダヤ教は当然ながら、アブラハムの子孫であるユダヤ人だけの宗教であり、神もそのユダヤ人だけの神と考えています。例外もあり、ユダヤ教の律法によって認められた場合異邦人もユダヤ教に改宗することができます。ですがその場合でも礼拝はユダヤ人と一緒に行うことはできず、改宗者席のような場所で礼拝しなければなりませんでした。使徒行伝8章26節から39節には、当時のユダヤ教の実情を知ることができます。弟子のピリポが主の使から命じられ、ガザへと向かいます。するとそこにエチオピア人で女王カンダケに仕える宦官が馬車に乗って礼拝から帰るところに立ち会います。この宦官は預言者イザヤの書を読んでおり、ピリポは「その書の内容がわかるか?」と尋ねます。宦官は「だれかが教えてくれなければ、どうしたらわかるでしょうか」と答え、ピリポに説き明かしを願いました。彼が読んでいたイザヤ書には、神の子が人々の罪を負って死なれるということが書かれていました。ピリポはこの神の子こそナザレのイエスだと説き明かし、水辺で洗礼を授けます。
まずこの宦官はエチオピア人ですから異邦人です。さらに彼は女王カンダケの全財産を管理するほど位の高い人物でした。基本的に礼拝を捧げるなら歩いて参列しますが、馬車に乗っているのですから相当な身分であったと考えられます。さらに自力で、ヘブライ語で書かれた聖書を読めるくらいの学力がありました。しかしそのような彼でさえ、聖書に書かれていることがわからずにいました。同じ神を信じると言って改宗した異邦人には説き明かしがなかったのです。ユダヤ教徒であるためには、割礼を受けなければいけません。しかし宦官というものは男性の生殖機能を人為的に絶った人がなるものですから、割礼を受けることはできません。心は神に向いているのに、真にユダヤ教徒となれない彼のもどかしさ、つらさが見えてきます。ユダヤ人と異邦人の隔たりを垣間見ることができます。
エペソ人ももちろんユダヤ人ではありませんから、ユダヤ教との隔たりがありました。そのような状況のなかで、キリストの福音の囚人であるパウロがあなたたちの救いは主イエス・キリストの他にないと伝えています。イエスをキリストである、わたしたちの救いであると告白する以前と今を対比して、今この時がどれほどの愛で満たされているかを、ピリポが宦官を説き明かした時のように言っているのです。「あなたがたは(キリストを知る)以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称される人々からは、無割礼の者と呼ばれており…」とあるとおり、ユダヤ人から迫害を受ける存在であったことが伺えます。さらに「イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。」とまで言われています。エペソ人が八方ふさがりで希望が見いだせていない状況だったのでしょう。
今はキリスト・イエスにあって聖餐に与ることができるようになったことで、平和を来たらせ、十字架によって神と一つになることができるようになったと力強く伝えています。エペソは現在のトルコ西側の海岸に位置するイズミル県のセルチュクという町であるとされています。場所もパレスチナから遠く離れた場所ですから、彼らが望むような信仰生活を守ることは難しかったでしょう。先週の説教でも伝えましたが、そうした苦難が多い場所にいれば、信仰から心が離れてしまい、せっかくキリスト教に改宗してもまたもともとの神に心が向いてしまうことでしょう。律法を守ることすらできない異邦人なのだからもう見放してしまえ、と本来なら思われても仕方がないでしょう。しかしキリスト教はそうではありません。まず主イエスは地の果てまで福音を宣べ伝えるために弟子たちを使徒として遣わすことを伝えています。この時点ですでにユダヤ人だけではなく異邦人にも福音に与る群れとして話しています。これは当時のユダヤ教において考えてもいないことでした。そうです。キリストの福音は考えてもいない部分で広がります。わたしたち人間には到底考えられない、未知の領域にまで及ぶものです。
わたしたちもかつてキリストを知らずに生きている時があったと思います。その時のわたしたちが今のわたしたちを想像できたでしょうか?想像できなかったでしょう。わたしも1年前の今頃は今の私がこうして皆さんと礼拝を守っていることを想像すらできていませんでした。しかし今わたしたちは主のもとで礼拝を守っています。エペソよりも遠い東の果ての日本の、この深谷の地ですら神の福音が、主イエスの福音が宣べ伝えられているのです。これはわたしたちの救いです。異邦人であるわたしたちすらも、神は愛を与えてくださっている。ユダヤ人だけが救われるという状況から、わたしたち異邦人ですら救われるようにしてくださった。この恵みに心から感謝したいと思います。
そして救いが与えられた私たちは次のことに目を向けていかなければいけません。与えられるだけでなく、その救いと恵みを一人でも多くの人々に伝えていかなければいけません。神と主イエス・キリストに出会ったわたしたちもまた、使徒として世界へと向かっていくべきです。その中で自分とは考え方が違う、わたしたちの群れとは雰囲気が合わないと、自分の考えで他の人を拒否してしまっては、健全な宣教を守ることは困難です。先ほども言いましたが、福音はわたしたちの想像をはるかに超えたものです。ですから自分の考えや常識に囚われすぎず、目の前に示される小さな福音に気づき、神の導きに全てを委ねて歩んでいきましょう。