深谷教会復活節第4主日礼拝
司会:西岡義治兄
聖書:ヨハネによる福音書21章15~25節
説教:「3度の赦し」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-459
奏楽:杉田裕恵姉
説教題: 「3度の赦し」 ヨハネによる福音書21章15~25節
わたしたちはいつも心の平安を求めています。不安がなく心穏やかに過ごせることを願っています。私自身も深谷教会に就任するまでは、「どんな教会で自分は馴染めるだろうか」という不安がありました。しかし今私は心穏やかに過ごさせていただいています。役員を始め多くの教会員の方々の声掛けとお支え、励ましをいただき感謝の気持ちでいっぱいです。同時に神と主イエスが深谷教会に導いてくださったことをうれしく思います。この思いを牧会に活かしていきたいと思うこの頃です。
2020年3月ごろから約3年続いたコロナ禍は私たちの日常生活に大きな影響を与えました。特に外出を自粛することが私たちの生活を大いに変える出来事であったでしょう。日常に必要な物を買うにしても、コロナ禍初期はスーパーマーケットに入場制限が掛けられていました。今を振り返るとあのころには戻りたくないという気持ちが湧いてきます。現在はコロナ禍以前の生活様式に戻りつつありますが、何か心から安心できない。そんな雰囲気が残っています。
コロナ禍真っ最中の頃、前任地である曽根教会の教会学校で誕生日会がありました。そこで教師の一人が誕生日を迎える子どもに対して、「どこへでも連れて行ってあげる!って言われたらどこに行きたいですか?」と質問しました。その子どもはしばらく考えたあと、小さな声で「お母さんのおなかの中」と答えました。もう私たちはびっくり!不要不急の外出を控えるよう言われていた時に、子どもは十分に体を動かして楽しんだり遊んだり場所がないから、きっと遊園地とか友だちの家とか、そういった場所をいうだろうと思っていたからです。そうか、この子が行きたい場所はお母さんのおなかの中なのか。その子どもに今いる場所はどのように目に映り、どのように見えているのだろう。そのように思いました。そういえばわたしも究極的な答えとしては、神の国に行きたい。そう願うものです。それとは真逆のこの世は行きたくない場所なのかもしれないのかもしれません。かつて私が小学生の頃、宿題を忘れてしまったことに気づく登校時、学校に行きたくなくて足が重くなったこと、クラスメイトから受けていたイジメで学校に行きたくないと思ったこと。行きたくない場所を思うといくらでも上がってきます。皆さんの中にも行きたくない場所があると思います。社会の大きな問題となっているパワーハラスメントやセクシャルハラスメントを受けている方にとってはそのすべてが行きたくない場所となります。世の中には物理的に行きたい場所もあります。しかし心理的にも物理的にも行きたくない場所の方が多くあると思います。
今日の聖書箇所においても、この話の中心となるシモン・ペテロにとってはまさしく先週お話しした朝食の場所こそ、行きたくない場所であったのではないでしょうか。ペテロは主イエスの受難の夜、主イエスの十字架の前で3度イエスを知らないといいました。そのことの負い目を感じていて、復活の主が漁をしているところに現れた時池に飛び込み逃げ出してしたと、先週の説教でもお話ししました。その他にも「今とった魚を少し持ってきなさい」というイエスにペテロが従う姿も、何か負い目を感じて少しでも主イエスと距離を取りたいと思っていたのかもしれません。想像の範囲ですが、自分がペテロならばそう思うだろうと思います。しかし「さあ、朝の食事をしなさい」という実態を持って復活された主イエスの言葉に逆らうこともできず、ペテロは食事を共にしました。今日はその後の出来事です。食事の席にいたペテロに主イエスは「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と問います。この質問を3回もします。ペテロは1回目と2回目は「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えます。その答えの後に主は「わたしの小羊を養いなさい」と伝えます。これが3度も続くのです。3度もこの質問をされたペテロは心を痛めたとあります。なぜ彼は心を痛めたのでしょうか。何度も同じことを言われたからであるとあります。ペテロは自分が主イエスを3度知らないといったからこのような酷なことを聴いてきているのだと思ったのでしょう。自分を責めているようにも感じたのかもしれません。3度目のペテロの言葉の後に主イエスは「わたしの羊を養いなさい」と言います。実はこの3度目の質問と答え。これは日本語では同じ言葉が用いられていますが、原文である聖書ギリシア語では「愛する」を意味する「アガペー」ではなく「好き」を意味する言葉で書かれているそうです。なぜここで「好き」という言葉に変わっているのでしょうか。三番目の問いは「愛する」ではなく「好き」という軽めの言葉で、はっきりと答えられないペトロの心情を主は配慮されたのではないかという考えがあるそうです。
3度目のペテロの答えの後に主イエスは「わたしの羊を養いなさい。よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのまま歩き回っていた。しかし年をとってからは、自分の手を伸ばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」と言います。その意味は「ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話になったのである」と説明されています。実際ペテロはこの後の伝道旅行で何度も投獄され、さらに逆さ十字の刑を受けて死んだとされています。とても聞いていて心地よいものではありません。そこに救いがあるのかと思う気持ちも湧いてきます。わたしたちにとっても、ペテロ本人にとってもこれから始まる道は行きたくない場所であったのです。しかしペテロは自分がしたことへの3度の赦しが与えられていたことに気づきます。これから続く苦難の道と比べたら、主イエスのこの3度の問いかけは優しく、慈愛に満ちたものでありました。真の意味で「主イエスの羊を養う者」として召命されたペテロは、この3度の赦しによって励まされ、新たな道を歩みます。そして行きたくない場所であるこの世の中で懸命に歩み、伝道し、多くの人々を主イエスの名によって癒し、そしてこの世の中に邪魔な岩のように隅に放り投げられてしまいますが、その岩こそ教会にとっての要石となり、その要石の上にイエスの小羊たちが集まり教会ができているのです。いわば教会は「行きたくない場所」にある「憩いの場所」であるのです。その教会を支配する神と主イエスは、わたしたちの負い目を赦し、その分大いなる愛を与えて下さるからです。
この深谷教会に来る前は不安であったと冒頭で申しましたが、今はもうその不安がありません。なぜならもうすでにこの教会が私にとって居心地がよく、多くの人々に愛されている教会であるということが、目で耳で、心で感じるからです。わたしはこの後もこの教会が「行きたい場所」となるよう牧会していきたいと決意しました。これから後の社会はますます混乱状態に入っていくでしょう。そんな世の中どう考えたって行きたくないじゃないですか。しかし私たちはたとえそう言っていたとしても、神の国が来るまではこの状態が進みます。その中で生きていたら負い目だって感じてしまいます。神に背を向けて歩んでしまうこともあるでしょう。私なんて教会に行く資格なんてない。そう思ってしまうこともあるでしょう。しかし主イエスはそれと同じように思っていたペテロに「わたしの羊を養いなさい」と3度の赦しを与えています。わたしたちも同じように赦していただいているのです。それを感じる場所こそこの教会です。礼拝こそ神の愛を受けるものであるのです。そして聖霊をもって私たちの背中を押してこの世へと送り出してくださるのです。これ以上の喜びがあるでしょうか。これまで強い励ましがほかにあるでしょうか。
この世の中は不条理に満ちています。自分の本意ではないことで思い悩み、つまずき、傷つく私たちでありますが、神の赦しを信じて歩みたいと思います。