「使徒パウロに会いたい」 ピリピ3:5~11

深谷教会受難節(レント)第1主日礼拝2024年2月18日
司会:岡嵜燿子姉
聖書:ピリピ人への手紙3章5節~11節
説教:「使徒パウロに会いたい」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-463
奏楽:野田治三郎兄

説教題 「使徒パウロに出会いたい」          (ピリピ3章5節~11節)       

「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦難に与かって、その死のさまとひとしくなり、何とかして死者のうちからの復活に達したいのである。」(ピリピ3:10,11)
ノーベル賞作家の大江健三郎さんは、「あなたがもし、もう一度生まれかわるとしたらどの時代、どの世紀に生まれたいとお考えでしょうか。」と問われて、「紀元一世紀に」と答えられました。皆さんは、いかがでしょうか。私もそのようなことが可能であるならば大江さんと同じ一世紀です。主イエスと同時代に生まれ、主イエスのお姿を直接目にし、説教をこの耳で聞き、できれば「み衣の端」に触れたいと思います。
 私には、もう一人、一世紀に会ってみたい人物がいます。一世紀に主イエスと同じユダヤ人として生まれたパウロです。キリスト教を世界宗教に押し上げたのは、名実共にパウロですが、彼は、復活後の主イエスにお会いしてから回心し、使徒になった人物です。それも復活後、聖霊となられて働かれる主イエスに出会いキリスト者になったのです。ということは、今日の私たちと同じ条件でキリスト者になり使徒となったということです。そういう意味でパウロは、私たちキリスト者の最前列にいる人物、信仰者ということになります。
 復活の主イエスとの出会い方は、人によって皆違います。大江さんご夫妻は、障碍を持つ長男が生まれた時、絶望のふちに落ちた経験を持っておられます。そのような時、大江さんは、原爆を投下された直後の広島に取材のため出かけました。そこで一人の医師との決定的な出会いをします。ご自身も被曝しているにもかかわらず被曝して苦しんでいる人々を懸命に治療し続ける人物に出会い、そのことによって大江健三郎さんご夫妻の生き方が変えられます。その医師との出会いによって希望が与えられ、彼らは、ご長男を「光」(ヒカリ)と命名したのです。ご夫妻は、知的障碍を持って生まれて来た男の子の到来に、キリストの到来を見たのだと思います。ヨハネによる福音書14章46節で主イエスは、ご自身のことをこう言っています。「私は、光としてこの世に来た。」と。そうです、私は、大江さんご夫妻は、絶望の中、広島の一人の医師との出会いを通してキリスト・イエスに出会われたのだと思えてなりません。
 主イエス・キリストは、まことに不思議な仕方で、今もご自身を私たちにお示しくださり、私たち一人一人の所に訪れてくださるのです。
 エル・ヴィーゼルは、ドイツの「ユダヤ人強制収容所」でガス室に入れられた無数のユダヤ人の子供たちの姿をその目で見続けなければならかった異常な経験をしたユダヤ人で、戦後解放されて作家になりました。そんな彼が次のようなことを書いています。「神さまが、もし、今お姿を現されるとしたら、それは子供の姿においてであろう。キリストは無力と思われる子供の姿においてご自身を示され、私たちの所へ今日も訪れてくださるというのであれば、私たちは、悲しいことやいろいろの困難や辛い事に直面し、受け入れがたいことが身に降りかかってくるような時、たとえ「死」の力が近づき、それが必ず到来するような時にも、「死」は必ず到来するでありましょうが、その時に『主キリスト』が先立って訪れてきてくださっているのではないか。子供たち、病気で苦しんでいる人たち、貧しい人たち、悲しんでいる人たちの中に、そのほか小さくされている人たちの中に、また苦しい、悲しい、つらい出来事を通して、キリストがそうした人たち、そうした出来事、また、さまざまな事象・現象を通して訪れてくださるのであれば、事態は全く新しい光の中に姿を現し『復活の光』の中でことがらをとらえ直されていくのではないか。その時、私たちは「紀元1世紀」という時にすでに生きるということができるのではないか。紀元一世紀のイエスに、そしてパウロに出会うことはかなうのだ」と。
 本日のみ言葉のピリピ人への手紙3章の10、11節に「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦難に与かって、その死のさまとひとしくなり、何とかして死者のうちからの復活に達したいのである。」とあります。まさに、このパウロの言葉は、パウロが、光の中の復活のキリストに出会った時、一度は、目が見えなくなった中から立ち上がり、キリストの光のうちに生まれ変わり、すべてを見えるようになったことを力強く証ししています(使徒行伝9章1節~19節)。
 今も生き、昔も生き、そして永遠に生き働かれる復活の主イエス・キリストとどういう形であれ、一度人生のどこかで出会った者は、その体験をその生涯忘れることはできません。その体験は、新しい人としてその人を生まれ変わらせ、キリストの十字架を喜び、どんな苦しく、つらい、重荷を担う者も、喜んで生きる者と変えられるのです。そして、何とかしてキリストが開かれた道を目指して生きる者となるのです。この世に宝を積む生き方から、この世の重荷を背負い、この世に貢献する、天に宝を積む生き方をする者へと。

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