「メシア待望」 イザヤ書53:1方~12

深谷教会待降節(アドベント)第3主日礼拝 2023年12月17日      法亢聖親牧師

 説教題 「メシア待望」   (イザヤ53:1~12)       

今週の招きの言葉を新共同訳聖書でお読みいたします。
「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:1,2a)
 旧約聖書は、メシア預言の書と言っても言い過ぎではないと思います。ユダヤの民は、幾度も国が亡びるという憂き目にあって来たからです。そのユダヤの民に神さまは、主の霊をモーセや多くの預言者たちに注ぎ、彼らを通してメシア(救い主)を遣わされることを伝えています。また、預言の書の一つヨエル書では、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」(3:1)というようにユダヤのすべての民にメシアが遣わされることを伝えています。
 その旧約聖書のメシア預言は、御子イエス・キリストによって成就したことを伝えているのが新約聖書です。その新約聖書は、神のみ子イエスこそ「律法と預言の書」である旧約聖書の成就者であることを伝えています。そうです、主イエスは、マタイ5:17で「わたしが来たのは律法や預言を廃するためだ、と思ってはならない。完成させる(成就する)ためである」とご自分を証しされました。
 ヘブライ人への手紙1章2節にあるように旧約の時代は、神の霊が注がれた者によってメシアが遣わされることが告げられていました。しかし、2000年前イエス・キリストが降誕された今現在は、新約の時代であってメシアである御子みずからが神の御心を語られるのです。新約聖書は、そのメシアであるイエス・キリストがどのようなお方で、どのような救いをもたらしてくださるかを開示しています。
 私たちは、降誕節(アドベント)の日々を歩んでおり、後一週間でクリスマスを迎えます。だが、クリスマスを迎える私たちは、二つのメシア待望のはざまを生きているのです。
 第1の待望は、この世に降誕された救い主を心に新たにお迎えし、その誕生を祝い、救い主(メシア)でありインマヌエルの主イエス・キリストと共に歩む者となるということです。
 そしてもう一つの第2の待望は、主が再び降臨される「再臨」の日を「主よ来てください」と祈り求め、讃美しつつ待望する日々を過ごすということです。このことをもう少し詳しく見てみましょう。
 「マラナタ」と言う言葉があります。これは主イエスの時代のユダヤ人が使っていたアラム語です。この言葉には、二つの意味があるのです。アルファベットで書きますと「MARANATHA」と言うつづりになります。これを「MARANA」と「THA」の間で切り「マラナ・タ」と読むと「主よ、来てください」と言う意味となり、主がこれからやってこられるということになります。他方、「MARAN」と「ATHA」の間で切り「マラン・アサ」と読むと「主は来てくださった」と言う意味になります。
 このように同じつづりの言葉をどこで切るかによって、「主よ、来てください」と言う願いにもなれば、「主は来てくださった」という事実を告げる表現になるのです。  
 さて、クリスマスの第一の主題は、第1の待望は、2000年前に「来てくださった」主イエスを記念することことにあります。マタイ福音書やルカ福音書の伝えるクリスマス物語は、「来てくださった」方がどういう方であり、この方が「来てくださった」ことによって何が起こったのかを伝える物語でもあるのです。
 例えば、マタイ福音書の東方の占星術の博士たちの物語は、「主が来てくださった」と言う出来事が、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも、そして世界中の人々にも関わる救いの出来事であったということを示しています。もはや、ユダヤ人や外国人と言った差別はなくなったこと、神さまはただユダヤ人だけでなく、すべての人間を愛してくださることを、マタイのクリスマス物語は伝えています。そればかりでなくルカ福音書に登場する羊飼たちの物語は、当時の世界で貧しく、卑しいと見なされていた人々に天使が現れ、一番最初にクリスマスのメッセージを伝えたことを記しています。ルカ福音書の物語によれば、「主が来てくださった」という福音は、まず、社会から疎外されている人々にもたらされる喜びであり、マニフィカート(マリアの讃歌)で主のはしためであるマリアが歌ったように主の助けが必要な、いと小さき者が大切にされる新しい世界が始まったことが強調しているのです。このほかにも福音書のクリスマスの物語には、豊かなメッセージが含まれています。即ち、「マラン・アサ:主が来てくださった」と言う言葉こそクリスマスの第1のテーマであり、私たちは2000年前に「来てくださった」私たちの主イエス・キリストを覚え、クリスマスの出来事を祝うように導かれているのです。そしてマタイ福音書1章23節が伝えているメシアは、「インマヌエル」、即ち「神は我々と共におられる」お方です。マタイ福音書によればクリスマスは、主イエスが「わたしはいつもあなた方と共にいる」(マタイ28:20)と語りかけてくださる恵みの出来事であり、その恵みの実現です(ヨハネ14:18)。
しかも、インマヌエルの主は、イザヤ書53章5節「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎(とが)のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によってわたしたちは癒された。」とあるように私たちの罪咎や生老病死、艱難辛苦を肩代わりして負って救いへと導いて下さるお方なのです。ここに愛があります。死すべき自己本位の私たちを、御子のイエス・キリストが担われた十字架の死と復活によって、私たちの罪を赦し永遠に生きることのできる神の子に生まれ変わらせてくださるからです。しかもその主イエスがインマヌエルの主がこの世の私たちの旅路を共に歩んでくださるのです。
 さて、クリスマスの第2のテーマ、第2の待望は、先にお話しした「マラナ・タ」であり、「主よ、来てください」と言う祈りです。ヨハネ黙示録の最後の部分、22章20節に「主イエスよ、来てください」という言葉が出てきます。この箇所の言葉はギリシア語で書かれていますが、多くの研究者は、「主よ、来てください」と言う言葉の表現の背後に、アラム語の「マラナ・タ」と言う言葉、初代教会の人々が礼拝の時に用いていた典礼用語である「マラナ・タ」と言う言葉が下敷きとなっていたのではないかと考えています。         
 新約聖書の最後の書ヨハネ黙示録は、一世紀末、現代の小アジア地方で迫害を受けていた初代教会の信徒たちを励ますために書かれたものだと言われています。その励ましの文書のいちばん最後の言葉が「マラナ・タ」、「主よ、来てください」という祈りだったということは、非常に希望の光を与えるものです。即ち、当時のキリスト教徒たちはローマ皇帝からの迫害とユダヤ教からの迫害におびえており最後のよりどころとしたものこそ、「主イエスの再論」の約束だったことをこの最後の言葉は示しているのです。「わたしは再びあなた方のもとに行く」と言う主イエスの言葉を信じて、初代のキリスト者たちは、苦難の中でも共に集い、共に祈り、共に讃美し、そして共に聖餐にあずかって、信仰を守り通したのです。そうしたキリスト者たちの「合言葉」がこの「マラナ・タ」だったのです。
 ですから、クリスマスは、2000年前にベツレヘムでお生まれになられた主イエスの誕生記念日でめでたい日と言うだけではなく、「わたしは再びあなたがたのもとに行く」と約束された主の言葉を思い起こし、主の再臨を祈り求める時でもあるのです。言い換えますと、私たちにとって、クリスマスを祝うということは、過去に起こった「マラン・アサ」と未来に起こるであろう「マラナ・タ」との間(はざま)に立って、その両方に対して感謝しつつ待望し、讃美しつつ祈ることだと思います。私たちキリスト者は、この二つの間を生きているのです。
 私たちが聖書を読むのは、「すでに来られた方」がどのようなお方であったかを知り、それによって「やがて来られる方」との出会いに備えるためなのです。
 私が高校生の時深谷教会の青年会が盛んで教会のクリスマスの時には、青年会の方々が毎年クリスマスにちなんだ寸劇をされていました。一番印象に残っているのがトルストイの「靴屋のマルチン」です。
 トルストイの「靴屋のマルチン」と言う寓話です。皆さんもよくご存じだと思いますが、ストーリを短縮してお話しますと、「神さまは信仰深いマルチンにある晩、明日お前の家を訪ねると約束をされました。マルチンは翌朝は役に起きて、朝の祈りを済ませ、靴を作る仕事にとりかかりました。しかし、いつ神さまが来て下さるのかが気にかかり、通りをふとながめると雪かきをする老人が見えたので、温かい仕事部屋に招き入れ温かいお茶を入れて飲ませ、仕事へとおくりだしました。昼頃ふと外を見ると店の前に貧しい赤ちゃんを抱いた婦人が体を震わせながら立っていました。そこで温かい仕事場に招き入れ、温かいスープを飲ませました。すっかり母子ともに温まったので出て行こうとした時、マルチンはその婦人に自分の外套をプレゼントしました。するとその母親は外套で赤ちゃんをくるみお礼を言って雪の積もる町中に出て行きました。夕刻になっても神さまはやってこられません。仕事の手を休めて通りを見ると子供が大人に怒られている光景が目に飛び込んできました。リンゴを盗むことはいけないことですが、少年に盗んだ分けを聴くと薬を買うことができないので病気の母親に滋養のあるリンゴをたべさせるためにんだというのです。マルチンはこの少年をかばい、お金を肩代わりして払いました。そして、夜となりマルチンは寝る前の祈りの時に神さまに言いました。「神さまあなたは、今日会いに来てくださると言われたのに来て下さいませんでした」と。すると神さまは応えられました。「今日私は三度あなたの家を訪ねたよ。よい忠実な僕マルチ、お前のしてくれたことをわたしは喜んでいるよ」と。この靴屋のマルチィンのお話は、「マラナ・タ」と「マラン・アサ」の狭間を生きる。
 神の御国に向かってインマヌエルの主と共に生きる私たちキリスト者の生き方を指し示いているように思います。神の御国を目指してインマヌエルの主と共に生き小さなイエスとして人々に仕え、「主よ、来たりませマラナ・タ」と祈り讃美しつつ共に歩んで行きたいと思います。
祈りましょう。
 天の父なる神さま
 世界中の人々の心にインマヌエルの主、神の愛の完成者である主イエス・キリストがお宿りくださいますように。そして、エゴと欲望の心を贖い清め、すべての人が愛し合い、助け合い分かちって生きる平和な世界を造り出していくことができますように。そのために、私たちを小さなイエスとしてお用いください。
 クリスマスの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン

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