深谷教会復活節第2主日礼拝2026年4月12日
司会:高橋和子姉
聖書:使徒行伝13章26~31節
説教:「計画通り」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-459,452
奏楽:野田治三郎兄
説教題:「計画通り」 使徒行伝13章26~31節 佐藤嘉哉牧師
使徒行伝13章26節から31節の御言葉を通して、主イエスの十字架が神の計画通りに行われたことを、今日一緒に考えたいと思います。この箇所は、パウロが最初の伝道旅行の途上で語った説教の一部です。使徒言行録13章全体の流れを見ると、パウロとバルナバはシリアのアンティオケ教会から聖霊によって遣わされ、キプロス島を経て小アジア地方へ向かいました。パンフリヤのペルガで同行者のマルコが離れた後、二人はさらに内陸へ進み、ピシデヤのアンティオケという町に着きました。この町は当時ローマの植民都市で、ユダヤ人の共同体がしっかり根付いていました。安息日になると、パウロたちはユダヤ人会堂に入り、席に着きました。律法と預言書の朗読が終わった後、会堂の長老たちが二人に声をかけて言いました。「もし民を励ます言葉があるなら、お話しください」と。そこが、この御言葉が語られた具体的な場面です。パウロは立ち上がり、手を振って注意を促し、旧約聖書の歴史を丁寧に振り返りながら、神がイスラエルを選び、導き、約束の救い主を送られたことを語り始めました。聴衆はアブラハムの子孫であるユダヤ人と、神を敬う異邦人たちでした。彼らは安息日ごとに集まり、預言書を読み、救い主の到来を待ち望んでいた人々です。パウロはこの歴史的背景の中で、救いの言葉が今ここに実現したことを告げます。
パウロはまず、聴衆に向かって、この救いの言葉はわたしたちに送られたのであると宣言します。救いとは、神が長い歴史を通して準備され、具体的に実現させたものです。エルサレムに住む人々とその指導者たちは、イエスを認めずに刑に処し、それによって、安息日ごとに読む預言者の言葉が成就したのです。彼らはイエスを理解せず、拒絶したにもかかわらず、その行為が神の計画を進める手段となったのです。また、なんら死に当たる理由が見いだせなかったのに、ピラトに強要してイエスを殺してしまいました。ピラト自身が無罪を認めていたにもかかわらず、群衆の圧力に負けた出来事です。それでも十字架は立てられました。こうして、イエスについて書いてあることを皆なし遂げてから、人々はイエスを木から取りおろして墓に葬ったのです。「木から」という言葉は、旧約の律法にある「木にかけられた者は呪われる」という箇所を思い起こさせます。イエスは私たちの呪いを代わりに負うために、十字架にかかられたのでした。
ここまでを聞くと、十字架は人間の策略が勝ったように感じられるかもしれません。指導者たちの拒絶と無知が、イエスを死に追いやったからです。しかし、パウロの言葉はそこで止まりません。しかし、神はイエスを死人の中から、よみがえらせたのであると、力強く告げます。この「しかし」がすべてを変えます。人間の計画は墓で終わったかに見えましたが、神の計画はそこで新しく始まったのです。復活こそが、神の御手がすべての出来事を導いていた証拠です。イエスは、ガリラヤからエルサレムへ一緒に上った人たちに、幾日ものあいだ現れました。そして、彼らは今や、人々に対してイエスの証人となっています。復活の出来事は、目撃者たちによって確かな事実として伝えられたのです。パウロ自身も後にこの復活の証人となりました。
この歴史的背景を踏まえると、私たちは主イエスの十字架を「計画通り」だったと確信できます。ピシデヤのアンティオケの会堂で、パウロが語った当時、聴衆はユダヤ教の伝統の中で生き、神の約束を待ち続けていました。しかし、パウロは彼らに、救いの言葉がすでに送られたことを告げました。エルサレムの指導者たちの無理解や、ピラトへの強要といった人間の行為が、預言を狂わせるどころか、かえって成就させたのです。神はそんな状況さえも、御自分の救いの御業の中に用いられたのです。旧約聖書が何世紀にもわたって指し示してきた救い主イエスが、十字架と復活によって完全に現れたのです。これが、私たちが確信を持つ理由です。人間の罪や拒絶が、神の計画を妨げることはありません。むしろ、神はそのすべてを御手に収め、救いの完成へと導かれたのです。
この確信は、私たちの日々の生活にも深い希望を与えます。思い通りに進まない出来事や、突然の苦しみに遭うときがあります。そんな時、ピシデヤのアンティオケで語られたこの御言葉を思い起こしてください。あの安息日の会堂で、パウロは歴史の流れを語りながら、神の主権を明らかにしました。弟子たちにとって十字架の金曜日は絶望の極みでしたが、神はすでに復活の朝を準備しておられました。同じ神が、私たちの人生のすべての場面を導いてくださいます。信仰者は、ただ耐えるのではなく、神の御手の中に委ねて歩むことができます。なぜなら、主イエスの十字架と復活が、神の計画の確かさを証明しているからです。
こうした神の計画の確かさは、歴史の中でもさまざまな人物の歩みを通して示されてきました。例えば、16世紀の宗教改革者ヨハネ・カルヴァンは、神の絶対的な主権を強く強調しました。カルヴァンは、十字架の出来事が人間の罪によるものではなく、神の永遠の御計画の中でイエスが私たちのために死なれたと教えました。彼は迫害や病の苦しみの中でさえ、神がすべてのことを最善に導かれると信じ、生涯を聖書解説と教会の改革に捧げました。カルヴァンの教えは、十字架が偶然の悲劇ではなく、神の救いの御業の中心であることを、私たちに思い出させます。
また、日本におけるキリスト教の歴史にも、神の計画が人間の迫害を越えて進んだ例があります。1597年、長崎の丘で26人のキリスト者が十字架にかけられました。この中にはフランシスコ会の宣教師や日本の信者、そして12歳の少年ルイス・茨木もいました。少年は十字架の前で「私の十字架はどれですか」と尋ね、進んでそれに抱きつき、賛美を歌いながら死を迎えました。彼らは豊臣秀吉のキリスト教禁止令のもとで命を落としましたが、その死はかえって信仰の火を消すことができず、後に隠れキリシタンとして信仰が守られ続けました。人間の力で教会を滅ぼそうとした試みは、神の計画の中で、かえって福音の種を日本に蒔くことになったのです。この出来事は、主イエスの十字架と同じく、見かけの敗北が神の勝利へとつながることを教えてくれます。
今日の御言葉は、私たちに救いの確信を新たにさせます。神はイエスを死からよみがえらせ、私たちにも新しい命を備えておられます。この救いは、私たちの努力によるものではなく、ただ神の恵みによるものです。私たちはその恵みを日々味わい、感謝のうちに生きる者でありたいと思います。
最後に、日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』、1997年収録の459番「飼い主わが主よ」と、452番「神はわたしを救い出された」を思い浮かべましょう。「飼い主わが主よ、まよう我らを 若草の野べに ともないたまえ。我らを守りて 養いたまえ、我らは主のもの、主の群れなれば」と歌うこの賛美は、主イエスが私たちを迷いから守り、導いてくださる羊飼いであることを告白します。十字架の計画通り、主は私たちを養い、死のかげの谷を通る時も慰めてくださいます。また、「神は私を救い出された。信じるこの身に 恐れなどない。尽きることのない いのちの水を 価なく誰にも 与えられる」と歌う452番は、復活の勝利がもたらす救いの喜びを表しています。主の名を高らかに語り伝えよ、と励ます歌詞は、今日の御言葉が私たちに託す使命です。
こうして、主イエスの十字架が神の計画通りに行われたことを確信するとき、私たちの心は平安に満たされます。神の御業は、いつも完璧です。私たちもこの救いの恵みに与かり、日々の歩みを主に委ねてまいりましょう。