深谷教会復活日礼拝2026年4月5日
司会:佐久間久美子姉
聖書:ローマ人への手紙6章3~11節
奉唱:イースターの朝には
説教:「罪に『さようなら』」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-320,325
奏楽:小野千恵子姉
説教題: 「罪に『さようなら』」ローマ人への手紙6:3-11 佐藤嘉哉牧師
私たちはときどき、自分自身に対してこう感じることがあります。「自分はまだ足りない」「このままでは神に向かえないのではないか」と。もっとしっかりした人間になってから、もう少し心が落ち着いてから、あるいは今抱えている問題、仕事のプレッシャー、家族の悩み、人間関係の傷などが解決してから、そうなって初めて神に向かうことができるのではないかと考えてしまうのです。しかし現実には、そう思えば思うほど、私たちは神から遠ざかってしまうことがあります。神に向かいたいと願いながらも、どこかで距離を取り、向き合うべきものから目を背けてしまう。そのような経験は、信仰を持っている人であっても、また初めて教会に来られた方であっても、誰もが抱えているものではないでしょうか。では、そのような私たちが、どのようにして「罪にさようなら」と言うことができるのでしょうか。
神は、整った私たちを呼ぶのではなく、今の私たちを呼んでおられます。
聖書は、このような私たちの状態を「罪」と呼びます。罪とは単に悪い行いのことではありません。もちろん行為も含まれますが、それ以上に、神との関係から離れてしまうこと、神に背を向けてしまうその状態そのものを指しています。分かっていながらできないことがある。大切だと知りながら離れてしまう。本当は向き合うべきなのに避けてしまう。そのような私たちの姿こそが、聖書の語る「罪」の現実なのです。
ローマ人への手紙3章23節にはこうあります。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって…」いる。罪は、私たちと神の間に壁を作り、本来結ばれているはずの関係を断ち切ってしまうのです。つまり、「罪にさようなら」とは、単に悪い行いをやめるということではなく、この関係の断絶から離れることを意味しています。
今日の聖書は、使徒パウロがローマの教会に宛てて書いた手紙、ローマ人への手紙です。当時のローマ教会には、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が共に集められ、信仰の理解や律法に対する考え方の違いから、緊張や戸惑いが生まれていました。そのような状況の中でパウロは、「人は律法の行いによってではなく、神の恵みによって義とされる」という信仰の中心を、改めて丁寧に語り直しました。
では、その恵みによって救われた者が、どのようにして「罪にさようなら」と言うことができるのでしょうか。恵みによって赦されるのであれば、罪の中にとどまってもよいのか、という問いに対して、パウロは「決してそうではない」と力強く答えます。使徒パウロはここで、「私たちはキリストと共に死に、共に葬られた」と語ります。この言葉は一見すると理解しがたいものかもしれませんが、ここには福音の中心が語られています。イエス・キリストが十字架にかかって死なれたとき、それは単に一人の人の死ではありませんでした。私たちの「罪に支配された古い生き方」が、そのときすでに終わりを迎えたのです。そしてキリストが復活されたとき、私たちにもまた新しい命に生きる道が開かれました。
私たちは変わったから愛されるのではありません。愛されているから、変えられていくのです。パウロはこう言っています。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」。
私たちは、罪の中にあって死に向かう存在です。しかしキリストにあって、すでに古い自分は終わり、新しい命に生きる者とされています。だからこそ、罪に支配される生き方から離れて歩むことができるのです。だからこそ、私たちは「罪にさようなら」と言うことができます。それは、自分の力で正しくなろうとする決意ではなく、すでに終わらされたものから離れて生きるという応答なのです。
パウロが語るこの『キリストと共に死ぬ』という出来事は、今日私たちが覚えるイースターの朝に、実際に起こったことと深くつながっています。ここで、イースターにおいて何が起こったのかを思い起こしたいと思います。ヨハネの福音書20章にはその出来事が静かに、しかし深く描かれています。週の初めの日、まだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に向かいました。彼女は愛する主を失い、深い悲しみの中にありました。墓に着くと、石が取りのけられているのを見て、弟子たちに知らせます。弟子のペテロともう一人の弟子が走って墓に行き、中をのぞくと、そこにはイエスの体はなく、亜麻布だけが残されていました。何が起こったのか分からないまま、彼らはその場を離れます。マリヤはその場にとどまり、外で泣き続けていました。彼女にとっては、復活の希望どころか、主の遺体さえ失われてしまったように感じられたのです。そのとき、彼女の背後に一人の人が立ち、「なぜ泣いているのか」と問います。彼女はそれが園の番人だと思い、「もしあなたが運び去ったのなら、どこに置いたのか教えてください」と言います。そのとき、その人はただ一言、「マリヤ」と呼びかけました。その瞬間、彼女は気づきます。「ラボニ、先生」と。そこにおられたのは復活された主イエスでした。
この出来事こそ、十字架によって罪が赦され、神との関係が回復されたことが、彼女の人生において現れた瞬間でした。神は、遠くから命じる方ではなく、名を呼んで近づいてくださる方です。この出来事は、私たちが神を見つけるのではなく、神が私たちを見つけてくださるということを示しています。主はこう言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」。私たちが整ってから神に向かうのではなく、神がすでに私たちを呼び、名を呼んでくださっているのです。それゆえに、「罪にさようなら」とは、「私はもう罪を持っていません」という宣言ではありませんし、「これからは決して失敗しません」という決意でもありません。それは、「私は、この罪に支配される生き方から離れます」という、神に向き直る決断なのです。しかし私たちは弱く、何度もつまずきます。神に向かおうとしても、また離れてしまうことがあります。それでもなお、聖書は語ります。あなたはすでにキリストと共に死に、そして今、新しい命に生きているのだと。
キリストは死に打ち勝ち、復活されました。死が終わりではないことが示されました。それは同時に、罪もまた、私たちを最終的に支配するものではないという宣言です。私たちは罪に縛られ続ける必要はありません。そこから離れることができるのです。なぜなら、神がすでに私たちを見捨てておられないからです。
私たちは完全ではありません。それでも日曜日はやってきます。毎週の主の日が、小さなイースターなのです。新しい朝が与えられ、神は今日も私たち一人ひとりの名を呼んでおられます。「こちらに来なさい。こちらを向きなさい」と。
だから私たちは、今日こう言うのです。「罪にさようなら」と。それは強くなったからではありません。完全になったからでもありません。すでに赦され、すでに支えられているからです。赦されている者だけが、新しく歩み出すことができるのです。そしてそのとき、私たちの内からあふれ出る言葉があります。それが「ハレルヤ」です。それは正しい人間の言葉ではなく、赦された者の言葉です。すでに神が私たちを選び、生かしておられるからです。
「罪にさようなら」、そしてハレルヤ。