深谷教会受難節第5主日礼拝2026年3月22日
司会:岡嵜燿子姉
聖書:ローマ人への手紙8章1~11節
説教:「お肉は早く痛む」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-305,446
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「お肉は早く痛む」 ローマ人への手紙 8:1~11 佐藤嘉哉牧師
皆さん、夏の暑い日に冷蔵庫に置いたお肉を思い浮かべてみてください。たとえ新鮮であっても、時間が少し過ぎればすぐに傷み、腐って食べられなくなってしまいます。この「お肉は早く傷む」という日常の事実は、私たちの人生の弱さや苦しみと深く重なっています。聖書が語る「肉」とは、罪に染まった人間の弱い性質のことです。その肉の苦しみは確かに激しく、重苦しいものです。しかし、肉であるがゆえに、その痛みには必ず終わりが来るのです。そして、神の御霊に生きる道を通じ、永遠のいのちの美しさが輝き出します。
この御言葉を理解するために、まずローマ人への手紙全体の流れと、それが書かれた背景に目を向けましょう。使徒パウロはこの手紙を、紀元55年から56年頃、コリントで3ヶ月ほど滞在した時期に執筆しました。当時、パウロは第三次伝道旅行の終わり近くにあり、エルサレムに献金を届けた後、ローマを経由してスペインへの宣教を計画していました。しかし、パウロはまだローマの教会を訪れたことがありませんでした。ローマの教会は、おそらくペンテコステの日にローマから来ていたユダヤ人たちが福音を聞き、帰国後に生まれた集まりだと考えられます。ユダヤ人と異邦人が混在する教会で、両者の間の緊張もあったようです。
パウロがこの長い手紙を書いた主な目的は三つあります。一つは、自身がローマを訪れる前の準備として、福音の純粋な内容をしっかりと伝え、教会の信仰を確かなものにすること。二つ目は、スペイン宣教の拠点としてローマの教会を支え、祈りと協力を求めること。そして三つ目は、福音の真理を体系的にまとめ、全人類に対する神の救いの計画を明らかにすることです。ローマ人への手紙は、パウロの書簡の中でも特に教理的で、福音の核心を深く掘り下げています。手紙の大きな構造は、まず全人類の罪の現実を描き出します。一章から三章までは、異邦人もユダヤ人も、誰もが神の栄光に達しない罪人であることを示します。次に、三章後半から五章にかけて、信仰によって神の義が与えられる恵みが語られます。六章では罪からの解放、七章では律法と罪の葛藤が詳しく記されます。そして八章は、この葛藤に対する決定的な答えとして、聖霊による新しいいのちと勝利を描くクライマックスとなります。九章から十一章はイスラエルの救いについて、十二章以降は福音にふさわしい生活の実際が示されます。このように、ローマ人への手紙は「義」というテーマで貫かれ、神の救いがどのように実現するかを壮大に描いています。
特に七章の終わりでは、パウロ自身が肉に属する者の苦しみを赤裸々に告白します。「わたしはみじめな人間だ。だれがこの死のからだからわたしを救ってくれるのか」と叫ぶのです。律法は善いものですが、人間の弱い肉の性質のゆえに、守ろうとすればするほど罪が増し、平安が失われてしまいます。あの章は、まさに肉に従う者の内なる戦いを描き出しています。努力しても、願いと実際の行動が食い違い、罪の奴隷となってしまいます。
しかし、八章に入ると、希望の光が一気に差し込みます。パウロはこう宣言します。「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」。これは、信じる者がもう有罪の宣告を受けないという、はっきりとした現実です。なぜそのような自由が与えられたのでしょうか。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」と続きます。律法だけではどうにもならなかった弱さを、神が御子イエスを通して解決してくださったのです。イエスは罪のないお方でありながら、罪の肉と同じ姿を取って来られ、十字架で罪そのものを罰せられました。その結果、肉によらず霊によって歩む者たちの内に、律法の要求が満たされる道が開かれたのです。
ここでパウロは、肉と霊の思いの根本的な違いを鮮やかに対比します。肉に従う者は肉のことを思い、それが死につながります。一方、霊に従う者は霊のことを思い、いのちと平安を得るのです。肉の思いは神に逆らい、律法に従うことさえできません。神を喜ばせることなど、到底無理なのです。しかし、私たちが神の御霊のうちに生きるなら、状況は全く変わります。キリストが内におられるなら、からだは罪によって死んでいても、霊は義によって生きています。そしてさらに、「もしイエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」との約束が与えられます。これは、身体の復活の確かな希望です。聖霊の力は、死さえも打ち破るのです。
ローマ人への手紙八章全体は、この聖霊による勝利を中心に展開します。一節から十一節までは、罪の宣告からの解放と肉と霊の対比が語られ、十二節以降では肉のわざを殺し、御霊に導かれる生活が勧められます。さらに、十八節からは現在の苦しみと将来の栄光が対比され、被造物全体がうめきながら神の子たちの現れを待ち望む様子が描かれます。二十六節では、聖霊が私たちの弱さを助け、祈りさえも取りなしてくださることが記され、三十一節以降は神の愛の確かさが力強く歌い上げられます。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに逆らうことができるだろうか」。こうして八章は、クリスチャンの生涯を貫く希望の章となっているのです。
主イエスご自身が、この道を先駆けて歩まれました。受難の時、イエスは肉体の死を本当に経験されました。鞭打たれ、十字架にかけられ、息を引き取られたのです。あの痛みは、どれほど激しかったことでしょう。肉の苦しみは、誰にとっても避けられないものです。私たちの日常も、病や喪失、失望、さまざまな試練で重くのしかかります。まさに、讃美歌二十一の三百五番が歌うように、「キリエ・エレイソン、主よ、あわれみを」と心から叫びたくなる瞬間です。しかし、イエスの歩まれた道を見ればわかります。肉は早く痛むように、その苦しみには終わりが必ず来るのです。イエスは死のとりこからよみがえられました。神の思いと救いの計画が、すべてを新しくしたのです。
ですから、私たちの痛みも、永遠に続くわけではありません。聖霊に導かれる歩みは、肉の弱さを超えて、いのちの美しさを現します。そこにこそ、永遠の命の輝きがあります。苦しみの最中でも、神は私たちを聖霊によって生かしてくださるのです。この希望は、私たちの力ではなく、神のみわざです。讃美歌二十一の四百四十六番が歌うように、主が手を取って起こしてくださるなら、よろめく足さえおどり歩む喜びが与えられます。主が触れてくださるなら、とじた目も開き、光を見るうれしさが訪れます。ただ主を見つめて歩むなら、波にも沈まず、おそれを知らない信仰が生まれるのです。これこそ神のみわざ。希望とは、こうした神の働きに他なりません。
私たちは、このみわざにあずかる喜びを、今日も帯びて生きていきたいのです。肉の痛みは確かに来ます。しかし、それは早く終わりを告げます。代わりに、聖霊のいのちが私たちを包み、復活の希望が輝きます。イエスの十字架と復活の道を思い起こしながら、神の御手が私たちを起こしてくださることを信じましょう。ローマ人への手紙八章が示すように、肉に属する者の葛藤を超え、御霊に生きる者として、神の愛と栄光のうちに歩むことができます。その確信と喜びこそ、今日の礼拝が私たちに与えてくださる大きな恵みです。
ここで、今日の説教題「お肉は早く痛む」に込められた少し隠されたメッセージを、お話ししたいと思います。肉そのものが腐ることを「傷む」という一方で、タイトルはあえて「痛む」としました。これは「肉体の痛み」を直接的に表現しています。私たちは小さな傷や試練でも、すぐに痛みを覚えてしまいます。その痛みは激しく、しかも長く感じられるものです。しかし、主イエスの十字架の苦しみと復活の光を通して、その痛みは永遠のものではないと知らされます。肉は早く痛むけれども、神の救いの計画はそれを乗り越え、いのちへと変えてくださるのです。
本日礼拝で歌う讃美歌305番「イェスの担った十字架は」と446番「主が手をとって起こせば」は、今日の御言葉と深く響き合っています。前者は、イエスの十字架がいのちの木となり、死のとりこからよみがえらせてくださる希望を歌い、後者は主が手を取って起こしてくださる神のみわざが、よろめく足を喜びに変え、恐れを知らない信仰を与えることを告白します。肉の苦しみの中であわれみを求めつつも、神の救いの計画がすべてを新しくし、永遠のいのちへと導いてくださる。この二つの讃美歌は、八章のメッセージを心に響かせる美しい響きとなって、私たちを励まします。
この希望を胸に、聖霊に導かれる歩みを続けていきましょう。肉は早く痛むけれども、神の御霊は永遠に生かし、喜びへと変えてくださいます。今日も、主の恵みに感謝しつつ、前進してまいりましょう。