深谷教会受難節第4主日礼拝2026年3月15日
聖書:ペテロの第二の手紙1章16~19節
説教:「信じるか信じないかは」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-306,509
奏楽:野田周平兄
説教題:「信じるか信じないかは」ペテロの第二の手紙 1:16-19 佐藤嘉哉牧師
レントのこの時期、私たちはイエスの歩まれた道を静かに振り返ります。十字架の死、復活、昇天、そして再臨。それぞれの出来事が、どのように一つにつながっているのか。本日のペテロの第二の手紙の言葉は、そのつながりを明らかにしながら、信じるか信じないかという問いを静かに投げかけています。
まず、ペテロの第二の手紙全体について少し触れておきましょう。この手紙は、使徒ペテロが自身の死が近いことを感じながら書いた最後の遺言のようなものです。宛先は明確に記されていませんが、3章1節で「すでに書いた手紙」とあることから、第一の手紙と同じ当時小アジアと呼ばれていた、現在のトルコにあたる地域の諸教会、つまり迫害の中で信仰を守るキリスト者たちに向けられています。ペテロは、教会に偽りの教師たちが忍び込み、再臨を嘲笑ったり、放蕩な生活を勧めたりする危険を強く感じていました。そこで、信仰を成長させ、真理に堅く立つよう警告し励ますために、この手紙をしたためたのです。全体の構成は三章に分かれ、1章では信仰の成長と神のことばの確かさを強調、2章では偽教師の特徴と裁きを厳しく描き、3章では主の再臨が必ず来ること、そしてそれが聖なる生活の励みになることを教えています。ペテロの目的は、読む人々が偽りの教えに惑わされず、主イエスを知る恵みと知識のうちに成長し続けることでした。
今日の世の中を見渡せば、戦争のニュースが絶えず流れ、災害の影が忍び寄り、SNSで広がる偽りの情報が人々の心を揺さぶります。再臨の希望など、ただの古い物語ではないかと疑問を抱く声も少なくありません。そんな暗い現実の中で、ペテロははっきり語ります。イエス・キリストの力と来臨を伝えるのに、巧みな作り話を用いることはしなかった、と。ペテロ自身が、そのご威光の目撃者だったからです。この証言は単なる思い出話ではありません。十字架に向かう直前、イエスがペテロや他の弟子たちを連れて聖なる山に登った時のことです。あの山で、イエスは父なる神からほまれと栄光をお受けになりました。おごそかな栄光の中から、天から出た声が響きました。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
あの聖なる山での変容には、神学的にも深い意味が込められています。イエスの姿が輝きに満ちたのは、神の栄光が地上に現れた瞬間でした。そこに律法を象徴するモーセと、預言者を代表するエリヤが現れたことは、旧約全体がイエス・キリストによって完成されることを示しています。レントのこの時期、イエスが十字架の死へと進まれる道筋の中で、この出来事は特別な位置を占めます。死の苦しみが近づく中で、弟子たちに栄光の姿を先に見せ、信仰を支えられたのです。変容は、イエスの死から復活、そして昇天と再臨へと続く一連の出来事が、神の御計画の中でしっかりとつながっている証しなのです。
教会の歴史をたどれば、この山の出来事は初期の信者たちに大きな力を与えました。ペテロがこの手紙をしたためた頃、ローマ皇帝ネロの時代が迫っていました。西暦64年の大火災を機に、クリスチャンたちは激しい迫害にさらされ、再臨を疑う偽りの教師たちが教会に忍び込んでいました。そんな中でペテロは、自身の死が近いことを感じながらも、この目撃体験を記したのです。後にペテロ自身がネロの迫害のもとで殉教したと伝えられるように、信仰の確かさを最後まで守り抜きました。レントの期間も、昔の教会では断食と祈りを重ねながら、聖書の預言を繰り返し読み、十字架の苦しみと栄光の希望を結びつけて過ごしました。中世の灰の水曜日には、前年の棕櫚の葉を焼いた灰を額に塗り、「あなたは塵であり、塵に帰る」と唱えつつも、預言の成就に目を留めて希望を新たにしたのです。
さらに、ペテロが指摘するように、この体験よりも確かなのが預言の言葉です。旧約に記された数々の約束が、イエスの生涯を事前に明らかにしていました。レント期に私たちは、この預言成就の意味をじっくりと味わいます。例えば、イザヤ書の苦しむ僕の姿は、イエスの十字架の死として歴史的に実現しました。詩篇の言葉は、墓からの復活を指し示し、実際に三日目にその通りとなりました。昇天は天の主権を、再臨はすべての完成を約束していました。これらはただの予言ではなく、西暦一世紀のエルサレムで起きた実際の出来事として記録されています。この成就を知ることで、暗い道を照らす光が心に宿ります。
その輝きは、復活の予告でもありました。十字架で命を落としたイエスは、三日目に墓からよみがえりました。体は新しい命に包まれ、弟子たちの前に現れました。山で示された威光は、まさにその復活の体が持つ栄光の前触れだったのです。死に打ち勝った姿を、ペテロたちは実際に目撃したのです。初期の教会はこの復活の事実を土台に、迫害の中でも広がっていきました。
復活の後、イエスは弟子たちに別れを告げ、天に昇っていきました。昇天の時、雲に包まれて父のもとへ帰られたのです。聖なる山で見た栄光は、その昇天後のイエスが今も輝いていることを思わせます。地上を離れても、イエスは変わらぬ力を保ち、弟子たちを見守っておられるのです。使徒言行録に記されたこの出来事は、教会の歴史を通じて、信者たちに天からの支えを実感させてきました。
そしてペテロが特に強調するのは、来臨、つまり再臨の力です。山の威光は、再臨の時の姿を先取りして見せたものでした。イエスは再び来られます。あの栄光に満ちた姿で、力強く。この世のすべての闇を照らすように。ペテロは断言します。それは作り話などではない。自分が目撃した事実だ、と。今日の私たちも、気候の変動や国際紛争、身近な喪失感に囲まれながら、再臨を信じきれない時があります。でもペテロの言葉は、そんな現代の疑問に直接答えているのです。
この預言の言葉に目を留め続けるなら、信じる道が開かれます。巧みな作り話ではなく、目撃者の証言と古くからの約束に基づく道です。レントの今、私たちの心はまさに暗やみのようです。イエスの死の苦しみを思い、罪の重さをかみしめます。でもその暗やみの中で、預言の言葉がともしびとなって道を照らしてくれるのです。死の出来事は悲しみだけではなく、復活への扉でした。昇天は別れではなく、天からの支えの始まりでした。そして再臨は、すべての完成への希望です。
教会に集うわたしたちも、この時期に聖書の言葉を繰り返し読んでみたいと思います。暗い道を歩む時こそ、明星が昇る希望が心に宿ります。イエスの死から始まるすべての出来事が、確かに実現した事実であることを、静かに受け止めましょう。歴史の中で迫害に耐えた人々も、同じ言葉に励まされました。現代の私たちも、偽りの情報や不安に負けず、このともしびに頼ることができます。
信じるか信じないかは、最終的に一人ひとりの心に委ねられています。しかしペテロの証言は、作り話ではないと力強く語りかけています。レントの終わりを迎えるイースターの朝に、復活の喜びを味わい、昇天のイエスを仰ぎ、再臨の光を待ち望む生活を、この言葉が支えてくれるのです。今日もそのともしびに目を留め、歩みを続けていきましょう。