「クリスチャンはいばらの道」ペテロの第一の手紙4:12~19

深谷教会受難節第3主日礼拝2026年3月8日
司会:山口奈津江姉
聖書:ペテロの第一の手紙4章12~19節
説教:「クリスチャンはいばらの道」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-303,411
奏楽:野田治三郎兄

    説教題:「クリスチャンはいばら道」ペテロの第一の手紙 4:12~19

 皆さん、今日お読みいただいた聖書箇所は、ペテロの第一の手紙4章12節から19節です。説教の題は「クリスチャンはいばら道」です。この箇所を通じて、信仰者が経験する苦しみの意味を深く考えていきたいと思います。苦しみは確かに現実としてあります。しかし、それ以上に希望が大きく、神の恵みが溢れていることを、しっかりと心に刻んでいきたいと思います。
 まず、ペテロという人物について、少し触れておきましょう。ペテロは、主イエス・キリストの十二弟子の一人でした。ガリラヤ湖の漁師として暮らしていた彼は、主に「あなたはペテロ、岩」という新しい名を与えられ、教会の土台となるよう召されました。主の逮捕の夜には恐れから三度否定してしまいましたが、復活の主に直接出会い、赦しと新しい使命を受けました。その後、彼はエルサレムの教会を導き、異邦人への福音の扉を開く働きをしました。この手紙は、そんなペテロが晩年にローマから書いたものです。当時のローマはネロ皇帝の時代で、クリスチャンに対する迫害が激しくなり始めていました。ペテロ自身も、やがて逆十字架につけられて殉教したと言われています。だからこそ、この手紙の言葉には、ただの理論ではなく、血と涙で染まった実体験の重みがあるのです。彼は「バビロン」という暗号でローマを指し、小アジア地方に散らされた信徒たちに、遠くから励ましの言葉を送ったのです。この第一の手紙全体は、「希望の書」と呼ばれるほど、苦しみの中にある人々への明るい光に満ちています。1章では、再生による生きる希望を語り、2章では主イエスを模範とした聖なる生き方を教え、3章では家庭や社会での謙遜と愛を具体的に示します。そして4章に入り、苦しみの問題が頂点に達します。ペテロは一貫して、「この世の苦しみは一時的だが、神の恵みは永遠である」と繰り返します。5章の最後では、「すべての恵みの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにあって永遠の栄光に招いてくださる」と締めくくっています。つまり、この手紙は、苦しみを避ける道ではなく、苦しみを通して希望へ導く道を示しているのです。
 それでは、今日の箇所に入りましょう。ペテロはまず、信徒たちにこう語りかけます。あなたがたを試みるための火のような試錬が臨んでも、それを思いがけないことのように驚いてはならない、と。当時の小アジアでは、キリストを信じるだけで家族から見放され、職場を追われ、町中で中傷の的となっていました。信徒たちは「なぜ信仰を持ったのに、こんな苦しみが」と戸惑っていたのです。ペテロはそれを、金を火で精錬する作業にたとえます。火は汚れを焼き払い、純粋な輝きを引き出すためのものです。クリスチャンのいばら道も、同じように神の御手による清めの過程なのです。主イエスご自身が十字架のいばらを歩まれた道に、私たちも連なっていることを忘れてはなりません。
 さらに、ペテロは大胆にこう勧めます。むしろ、キリストの苦しみにあずかっているのだから、喜びなさい。そうすれば、キリストの栄光が現れるときにも、喜び踊ることができます、と。ここに苦しみの深い意味があります。今の痛みは、無意味な不幸ではなく、主の十字架の苦しみと結びついているのです。主が味わわれた孤独や拒絶を、私たちも少しずつ分かち合っている。そして、その先に待つのは、再臨の栄光の時です。すべての涙が拭われ、永遠の喜びが満ちる日が、確かに来るのです。この希望の大きさは、現在のいばらの重さをはるかに超えています。神の恵みが、苦しみのただ中にすでに流れ込んでいるからです。
 ペテロは続けて、こう宣言します。キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである、と。世の人々にとってののしりは恥ですが、クリスチャンにとっては幸いです。なぜなら、そこに聖霊が宿り、慰めと力を与えてくださるからです。いばら道の真っただ中でも、神の霊が私たちを包み、歩みを支えてくださいます。この臨在こそ、どんな困難をも耐え抜く源なのです。
 ただし、ペテロはここで明確に区別します。あなたがたのうち、だれも、人殺しや盗人や悪事を働く者、他人のことに干渉する者として苦しみを受けないようにしなさい、と。苦しみの原因が自分の罪や不適切な行動であってはなりません。信仰の名を汚すような生き方は避けなければなりません。その上で、こう励まします。しかし、キリスト者として苦しみを受けるなら、恥じてはならない。むしろ、この名によって神をあがめなさい、と。当時「キリスト者」という呼び名は蔑称でした。それをペテロは逆転させます。この名を背負うことを、神への賛美に変えなさいと言うのです。
 そして、裁きの視点からさらに希望を語ります。裁きが神の家から始められる時が来たからです。もしそれがまず私たちから始まるなら、神の福音に従わない者たちの末はどのようなことになるでしょう、と。神の家とは教会のことです。神はまずご自分の民を試練で清め、整えられるのです。これは罰ではなく、深い愛の導きです。旧約の言葉を引用して、正しい者も救われるのがやっとであるなら、不敬虔な者や罪人はどこに立つことができるでしょう、と言います。この言葉は、私たちに逆説的な安心を与えます。今の苦しみは、神が私たちを特別に扱ってくださる証拠なのです。世が最終的な裁きを受ける前に、私たちはすでに救いの道を確実に歩んでいるのです。苦しみは一時的、神の恵みは永遠です。
 最後に、ペテロは実践の道を示します。ですから、神の御心に従って苦しみを受ける人々は、善を行いつつ、忠実な創造主に自分の魂をゆだねなさい、と。苦しみの中でも善をやめず、すべてを神に委ねることです。世界を造られた創造主は、決して忠実さを失いません。このゆだねの中に、真の平安と力が生まれます。
 このペテロの教えを、18世紀イギリスのウィリアム・カウパーという人物の生涯に重ねてみましょう。彼は詩人であり、賛美歌の作詞者として知られていますが、生涯にわたり深いうつ病と精神的な苦しみに悩まされました。幼少期からいじめを受け、成人後も自殺未遂を繰り返し、何度も絶望の淵に立たされました。そんな中で、彼はジョン・ニュートンという牧師に出会い、キリストの福音に触れました。ニュートンはカウパーを支え、一緒に多くの賛美歌を作りました。その中の一つが「驚くばかりの恵み」(Amazing Grace)ではありませんが、カウパーの代表作「神は光なり」(God Moves in a Mysterious Way)です。この歌詞には、暗闇の中でも神の摂理が働いているという確信が込められています。「神は神秘の道を進み、その業は見えざるもの。嵐の雲の下に隠れても、彼は常に正しい」と歌うのです。カウパーは、自身の苦しみを決して隠さず、神の恵みがそれを覆うことを証ししました。彼の人生は、いばら道そのものでしたが、神に魂をゆだね続けた結果、今日も多くの人がその歌を通じて希望を見いだしています。苦しみの底でさえ、神の恵みが輝くことを、彼は身をもって示したのです。
 皆さん、カウパーの姿は、私たちに何を語りかけているでしょうか。クリスチャンの道はいばらに満ちています。しかし、そこを歩む私たちには、主イエスの十字架と復活の希望が伴っています。ペテロが教えるように、苦しみは現実ですが、神の恵みと喜びはそれをはるかに超えます。今日から、善を行いながら、忠実な創造主にすべてを委ねましょう。そうすれば、いばら道は、栄光の冠へと変わる道となるのです。

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