深谷教会受難節第2主日礼拝2026年3月1日
司会:野田治三郎兄
聖書:ヨハネの第一の手紙3章1~10節
説教:「神の子と悪魔の子」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-300,356
奏楽:小野千恵子姉
説教題:「神の子と悪魔の子」 ヨハネの第一の手紙3:1~10 佐藤嘉哉牧師
今日は、ヨハネの第一の手紙3章1節から10節を読みながら、神の愛が私たちに与える深い恵みを思い浮かべます。この箇所は、神の家族の一員として生きる喜びを語りつつ、罪との向き合い方をはっきり示しています。神の子として歩む道は、世の中の常識とは異なる視点を与えてくれます。そこでは、良い行いと悪い行いが、単なる人間の基準ではなく、神の真理に基づくものとして描かれています。罪の本質を理解し、神から新しく生まれた者がどのように変えられるかを、聖書の言葉に沿って探っていきましょう。
まず、神の愛の大きさに目を向けます。ヨハネは、私たちが神の子と呼ばれる恵みを強調します。父なる神から与えられたこの愛は、想像を超えるほど豊かです。私たちはすでにその子として認められているのに、世の人々がそれを見抜けないのは、神自身を知らないからです。この地位は、単なる名誉ではなく、現実の変革をもたらします。神の子であるという事実は、私たちの日常を照らし、将来の希望を約束します。再臨の時にイエスが現れるなら、私たちは彼に似た者になるとヨハネは記します。この望みが、私たちを清く保つ力になります。神の愛は、私たちをただ慰めるだけでなく、行動を促すのです。
しかし、この神の愛の中で生きることは、世の価値観とぶつかる点があります。世の中では、良いことは成功や親切、悪いことは犯罪や不誠実と見なされがちです。確かに、それらは社会を支える大切な規範です。しかし、キリスト教の教えでは、善悪の基準が神の意志に根ざします。人間の目には立派に見える行いでも、神の律法に反していれば、それは不義となります。逆に神の導きに従う小さな忠実さが、真の正しさとして輝くのです。例えば、世が称賛する富の追求が、神を第一にしないなら、それは偶像崇拝に近づきます。ヨハネの言葉は、そんなずれを指摘します。神の子として生きる私たちは、世の流行や利便さではなく、神の正義を優先するよう求められるのです。この違いを認識することで、私たちの選択はより純粋になります。
では、罪とは一体何でしょうか。ヨハネは明確に、罪を不法と定義します。つまり、神の定めた秩序に対する違反です。罪は、単なる過ちや弱さではなく、神の意志に背く積極的な反逆を意味します。創世記から続く人間の堕落が、ここに反映されています。悪魔が初めから罪を犯してきたように、罪は破壊的な力を持ちます。しかし、イエスはこの罪を除くために現れました。彼自身に罪はなく、私たちの代わりに十字架で贖いを成し遂げたのです。この事実を知るなら、私たちは罪の重さを軽く見ず、神の赦しに頼るようになります。自分たちが犯した罪を「主イエスが担ってくださったからいいや」と軽く見ず、むしろ「こんなわたしの罪を無罪の人が担ったのだ」という重さを感じるのです。罪は、そのような主の圧倒的な愛と赦しと恵みから引き離すものですが、イエスの業によって克服可能です。ヨハネの教えは、罪を抽象的に扱わず、私たちの生活に直結させます。日常の小さな選択が、神の法に沿うか否かを問うのです。
特に印象的なのは、「すべて神から生れた者は、罪を犯さない」という表現です。これは、完全無欠の人間になるという意味ではありません。神から生まれた者は、聖霊の働きにより、罪の習慣から解放されるということです。かつての生活パターンが変わり、神の正しさを求める心が生まれるのです。もちろん、私たちはまだ肉体を持ち多くの誘惑に遭います。しかし、その中で罪を選び続けることは、神とのつながりを否定するようなものです。ヨハネは、義を行う者が義人であると述べます。これは、信仰が行動に表れることを示します。神の子は、イエスのように清くあろうと努めます。罪を犯すことができないというのは、潜在的な力として、神の種が私たちを守るからです。この言葉は励ましであり警告でもあります。真に神を知るなら罪の道を避け、正義を追い求めるようになるのです。
さらに、ヨハネはこの箇所で、神の子と悪魔の子の区別を明らかにします。義を行わず、他者を愛さない者は、神から出た者ではないと断言します。ここで、愛の欠如が鍵となります。神の愛を受けた私たちは、それを他者に広げるべきです。悪魔の業は分裂と破壊ですが、イエスはそれを滅ぼすために来られました。この対比は、私たちの自己同一性を問います。神の子として生きるか、それとも罪の影響下に留まるか。選択は日々の行いに現れます。ヨハネのメッセージは、信仰を内面的なものに留めず、外に向かう愛として実践せよと促します。
この教えを振り返ると、神の愛がすべてのはじまりです。私たちはその愛によって子とされ、罪から自由になり、正義を生きる力を得ます。世の善悪を超えた神の基準が、私たちの人生を豊かにします。この聖書の箇所を読み、チャールズ・ウェスレーのエピソードを思い浮かべました。彼は18世紀のイギリスで、兄ジョンとともにメソジスト運動を起こした人物です。若い頃、チャールズはオックスフォード大学で学び、厳格な信仰生活を送っていましたが、心の奥底では深い不安と罪の意識に苛まれていました。1738年5月21日、彼はロンドンの小さな家で病床に伏せていました。その時、モラヴィア派の信徒が訪れ、聖書の言葉を語りかけました。特に、ガラテヤ人への手紙2章20節「私はキリストと共に十字架につけられた」という一節が彼の心を強く打ちました。チャールズはその瞬間、神の赦しと愛を確信し、深い喜びと平安に満たされました。病床から立ち上がり、すぐに賛美歌を書き始めました。それが「アンド・キャン・イット・ビー」(驚くべき愛よ)です。この歌詞には、「驚くべき愛よ、われを罪びとと知りながら、十字架にかかりし主よ。われを贖うために血を流し給うた主よ」という切実な告白が込められています。チャールズは生涯で6000曲を超える賛美歌を残しましたが、この一曲は彼の罪からの解放と、神の子としての新生を象徴しています。神の種が内住し、罪を犯さない新しい命が与えられるというヨハネの言葉を、まさに体現した出来事でした。
チャールズの影響は、世界中のキリスト教に及びます。彼の賛美歌は、単なる歌ではなく、神学を詩的に表現したもので、聖書と教理を詰め込んだ内容が特徴です。例えば、「おお、千の舌をもて歌え」や「イエスよ、私の魂の恋人」、「愛の神よ、すべての愛を越えて」、「聞け、天使の歌」といった曲は今日も多くの教会で歌われ、クリスマスや復活祭の定番となっています。これらの賛美歌は、メソジスト運動を通じてイギリスからアメリカ、さらにはアジアやアフリカへ広がり、プロテスタントの礼拝文化を形成しました。初期のメソジストの信徒たちはチャールズの歌を通じて信仰を学び、日常的に神の真理を心に刻みました。音楽の力が記憶に深く残るため、死の床でもこれらの歌を口ずさむ人々がいたと言われます。彼の作品は、教派を超えてカトリックや他のプロテスタント教会にも取り入れられ、世界的な賛美歌集に収録されています。チャールズの遺産は、信仰を感情的に体験させる点で革新的でした。6000曲近い膨大な作品は、ファニー・クロスビーなどの後世の賛美歌作家に影響を与え、キリスト教音楽の基盤を築きました。このように、チャールズは神の愛と贖いのメッセージを、世界中の信者に届け続けているのです。
神の子として生きる私たちは、このような恵みに感謝し、悪魔の誘惑に勝つ力を頂きます。今日の言葉が心に留まり、日々の歩みを支えますように。