深谷教会降誕節第8主日礼拝2026年2月15日
司会:高橋和子姉
聖書:テモテへの第一の手紙4章4~16節
説教:「あなたの人生が一番の説教です」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-418,529
奏楽:野田治三郎兄
説教題:「あなたの人生が一番の説教です」 テモテへの第一の手紙4:4-16 佐藤嘉哉牧師
みなさん、今日はテモテへの第一の手紙4章4節から16節を読みながら、私たちの信仰生活について一緒に 考えてみたいと思います。説教の題は「あなたの人生が一番の説教です」。この箇所でパウロは、若いテモテに信仰のあり方を強く勧めています。神の造られたものはすべて良いものであり、感謝して受け取るなら、何も捨てる必要はないと語りかけます。そして、敬虔な生き方を鍛錬し、自分自身と教えに気をつけるよう促しています。この言葉は、私たち一人ひとりの日常に深く響くものだと感じます。
クリスチャンという存在は、しばしば清らで神聖なイメージを持たれます。周囲から見て、少し世間から離れたような印象を与えるかもしれません。それは、神に呼び出され、変えられた結果です。しかし、誰もが生まれながらにそうだったわけではありません。私たちは皆、普通の人間としてこの世界に生まれ、さまざまな経験を積みながら、主イエスに出会います。その出会いが、私たちを変えていくきっかけになるのです。信仰の確信は、一夜にして得られるものではなく、日々の歩みの中で少しずつ育まれます。
私は今、30代の半ばにいます。まだまだその変容の道を歩んでいる最中です。神の恵みに触れ、聖書を通して学びながら、自分自身が変わっていくのを実感しています。それでも正直に言いますと、人に神の真理を完全に伝えられるほどの経験や知識はまだ十分とは思えません。時折自分の未熟さを痛感します。それでも、この教会でみなさんと共に過ごせるのは、かけがえのない機会です。私の言葉が不十分であっても、共に祈り、話し合う中で、神の導きを感じられるからです。
考えてみてください。みなさんは、私よりも長い人生を歩んでこられた方が多いはずです。喜びや悲しみ、試練や勝利を数多く味わい、そこから得た知恵をお持ちです。そんなみなさんこそ、神の恵みを伝えるのにぴったりな存在ではないでしょうか。説教とは、ただ言葉を並べることだけではありません。一人ひとりの人生そのものが、何よりの証しになるのです。毎日の選択、困難に向き合う姿勢、それが人々の心を動かします。
人々は完璧な説明よりも、神に向かう真摯な姿に惹かれるものです。最初は、その人の生き様に憧れる形で始まるかもしれません。たとえば、職場で穏やかに振る舞う同僚の姿を見て、興味を抱くように。やがて主イエスがその人を通して、他の人々と出会う機会を生み出します。そんな小さな出会いの積み重ねが、隣人を思いやる愛の実践になるのです。愛は、抽象的な概念ではなく、日常の行動として現れます。
このことを思い浮かべるとき、弟子たちのことが頭に浮かびます。彼らは、もともと漁師や徴税人といった、ごく普通の職業に就く人々でした。清らかさや神聖さとは程遠い、土埃にまみれた日常を送っていました。ペテロは熱心ですが、時には主を否定する弱さを見せました。アンデレやヨハネも、最初はただの兄弟として湖畔で網を投げていたのです。しかし、主イエスはそんな彼らを選び、変えていきました。十字架と復活の出来事を通じて、彼らは使徒として生まれ変わり、世界中に福音を広めていったのです。私たちクリスチャンは、その系譜を継ぐ者です。だからこそ、完璧さを求めず、彼らに倣って歩むことが大切です。神は、私たちの弱ささえ用いてくださいます。
パウロの言葉に戻ってみましょう。この手紙で、彼はテモテに「からだの鍛錬は、わずかの益はあるが、敬虔は、現在のいのちにも、きたるべきいのちにも益する」と教えています。敬虔とは、神を畏れ、信頼する心です。それを鍛えるために、俗悪な話から離れ、信仰の言葉に養われるよう勧めます。私たちの生活も同じです。毎日の選択が、敬虔さを形作ります。たとえば、忙しい朝に祈りの時間を取るかどうか、困っている人に手を差し伸べるかどうか。そんな積み重ねが、人生を豊かにします。
さらに、パウロはテモテに「あなたは若いのだから、だれにも軽く見られてはならない」と語ります。言葉、生活、愛、信仰、純潔の面で、信者の模範になるよう促します。これは、年齢に関係なく、私たち全員への呼びかけです。若い人は経験が浅いかもしれませんが、熱意で示せます。年配の方は、蓄積された洞察で導けます。誰もが、自分の立場で模範になれるのです。純潔とは、ただ身体的なことではなく、心の清さを意味します。神に向かう純粋な思いが、周囲に影響を与えます。
この箇所で印象的なのは、「自分自身にも、教のことにも、よく気をつけなさい」という部分です。これを続けるなら、自分自身と聞く人々を救うことになると言います。救いは、神の業ですが、私たちの姿勢がその手段になります。教会は、そんな共同体です。互いの人生を共有し、励まし合う場です。私の経験が少ない分、みなさんの物語を聞くのが楽しみです。それぞれの歩みが、神の恵みを語るのです。
歴史を振り返ると、このような変容の例は数多くあります。たとえば、4世紀のアウグスティヌスは、若い頃に放蕩な生活を送っていました。哲学や快楽に没頭し、神から遠ざかっていました。しかし、母モニカの祈りと、ある庭での聖書の言葉との出会いが彼を変えました。「ローマ人への手紙13章13節から14節」を読んだ瞬間、心が開かれ、回心したのです。以後、彼は偉大な神学者となり、『告白』という書物で自分の変貌を記しました。そこには、「あなたは私たちをあなたご自身のために造られ、私たちの心はあなたのうちに憩うまで安らぎを得ない」という有名な言葉があります。アウグスティヌスは、完璧なスタートではなかったのに、神によって用いられました。私たちも同じです。過去の過ちさえ、神の物語の一部になります。
もう一つの例として、16世紀のマルティン・ルターを挙げます。彼は修道士として厳しい禁欲生活を強いられ、自分自身の罪深さに苦しみました。神の義を恐れ、絶望の淵にいました。しかし、ローマ人への手紙1章17節の「義人は信仰によって生きる」という言葉が、彼の心を照らしました。それが宗教改革の火付け役となり、聖書の真理を人々に届けました。ルターは、決して浮世離れした聖人ではなく、葛藤を抱えた人間でした。それでも、神は彼の人生を説教として用いました。私たちの日常も、そうした可能性を秘めています。
こうした歴史的人物のエピソードは、私たちに希望を与えます。彼らは、弟子たちと同じく、変えられる過程を歩みました。完璧さを装うのではなく、神の恵みに頼ったのです。私たちも、それに倣いましょう。信仰は、静かな変革です。日々の小さな決断が、大きな実を結びます。
まとめとして、キリスト教の美しい詩を思い浮かべます。ジョン・ニュートンの賛美歌「アメイジング・グレイス」です。Amazing grace! How sweet the sound. That saved a wretch like me! I once was lost, but now I’m found; Was blind, but now I see. 「なんという素晴らしい恵み、なんと甘美な響きか。私のような『人でなし(哀れな者)』をも救ってくださった。昔は迷子だったが、今は見つけ出された。盲目だったが、今は見える。」これは、奴隷船の船長だったニュートンが、嵐の中で主に出会い、回心した経験から生まれました。彼は、失われていた自分を救われた恵みを歌います。この詩は、私たちの人生を象徴します。かつて盲目だった者が、見えるようになる。失われていた者が、見出される。そんな恵みが、私たちの歩みを説教に変えます。
みなさん、あなたの人生こそ、一番の説教です。言葉を超えた姿が、人々を主イエスに導きます。今日から、それを信じて歩みましょう。神の恵みが、豊かに注がれますように。