「推し活と神」ローマ人への手紙1:18~25

深谷教会降誕節第7主日礼拝2026年2月8日
司会:佐久間久美子姉
聖書:ローマ人への手紙1章18~25節
説教:「推し活と神」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-544,530
奏楽:落合真理子姉

    説教題:「推し活と神」ローマ人への手紙1:18~25   佐藤嘉哉牧師

 今日は衆議院総選挙の開票日です。今日本は大きく揺れ動いています。正直今までのわたしたちの政治や国家に対する認識が大きく変わることになりそうだなと思います。現在の選挙はまさに国家政治対宗教のようであり、甚だ疑問の多いものであるのは否めません。しかし喜ばしい事に、20代から30代のいわゆる若者世代が政治に対して大きな関心を向けています。そのきっかけとなったのが「サナ活」です。「サナ活」とは自民党総裁を慕う気持ちから、持っている服やペンを購入したり、髪型を同じようにさせたりする活動のこと。つまり総裁を「推し」にして活動するという意味があります。本日の説教題にある「推し活」というのも、「『推し』を応援する活動」のことを指すものです。「推す」はアイドルに対して使うことが多いのですが、アイドルのみならず政治家にもそうした視線が送られるようになったのは大きな変化と言えるでしょう。(ただ、総裁が持っていたペンの色違いまで品薄になるほどであり、少し異常なものを感じざるを得ません。)しかし、この「推す」という文化は今から始まったことではありません。まさにわたしたちは見方を変えれば、神と主を「推す」人々であるからです。わたしたちはその「推し活」のことを信仰と呼びます。神をわたしたちの父と呼び、イエス・キリストを救い主と崇めます。しかし本当に「信仰」と「推す」は同じなのでしょうか。違うとすればそれは何を持って「違う」と言えるのでしょうか。わたしたちの信仰は「推し活」になっていないかを見つめ直したいと思います。
「推し活」の現象を見ていると、人が何かを熱心に追い求める気持ちがどれほど強いものかを思い知らされます。ファンが好きな人物のグッズを集めたり、似たスタイルを真似したりするのは、単なる楽しみを超えてその対象に自分を重ねるような行為です。そこには敬慕の念があり、時には生活の中心になるほどです。政治の場でさえ、このような動きが起きているのは、社会全体が何かを求め、支えを欲している証拠かもしれません。ですが、ここで大切なのはこうした行動が人間の根源的な欲求から来ている点です。私たちは皆、何か大きな存在に心を寄せ、意味を見出そうとする生き物なのです。
 聖書はこの人間の性質を深く見つめています。ローマ人への手紙1章18節では、「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される」と記されています。ここで語られる「真理」とは、神ご自身に関するものです。神は私たちにその存在を明らかに示しておられるのに、人間はそれを故意に抑え込んでしまう。こうした態度が神の怒りを招くのです。
さらに19節と20節では、神の存在がどのように明らかになっているかを説明します。「なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」。つまり周囲の自然界や宇宙の秩序、生命の驚異を通じて、神の力と神らしさがはっきり分かるはずだというのです。星空を見上げたり、季節の移り変わりを眺めたりするだけで、何か超越的な存在を感じる人は少なくありません。それなのに、人間は言い訳できないほどにそれを認めようとしないのです。
 この箇所を「推し活」と重ねて考えてみましょう。推し活では、人が特定の人物やものを崇拝に近い形で追いかけます。アイドルや政治家のファンがその人を理想化し、グッズに囲まれて満足感を得る様子は、まるで神の位置に人間を置いているようです。ですが、聖書はこれを警告しています。21節で、「なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである」とあります。神を知りながらあがめない。感謝を忘れる。これが問題の始まりです。推し活の熱狂も、最初は純粋な憧れから始まるかもしれませんが、それが本物の神を置き換えてしまうと心が空しくなり、暗闇に陥るのです。
 22節と23節は、さらに具体的に描きます。「彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである」。自分を賢いと思い込んでいるのに、実は最大の間違いを犯している。永遠に輝く神の栄光を、壊れやすい人間や動物の形に置き換えてしまうのです。ここでいう「像」は古代の偶像を指しますが、現代の推し活に通じる点があります。推しの写真やグッズを大切にし、それを生活の中心に据えるのは、被造物を神の代わりに崇める行為に似ています。その押しのグッズを並べている棚を「神棚」と称する程ですから、相当ですよね。推しは人間ですから、いつか変化したり、失望させたりする存在です。それなのにそこに永遠の価値を求めてしまうのは、驚くべき選択ではないでしょうか。
 こうした置き換えの結果が、24節と25節に示されます。「ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン」。神は、こうした人々を欲望のままに任せます。これは裁きのひとつの形で、神が手を引くことで、罪の結果を自ら味わわせるものです。真理を偽りに変え、造られたものを造り主の代わりに拝む。これが偶像崇拝の本質です。推し活がここまで極端になるとは限りませんが、もし推しが人生のすべてになってしまうなら、それは真理を曲げ、偽りの満足に頼る状態です。永遠にほむべきは創造者である神だけなのです。
 では、信仰とは何でしょうか。推し活との違いは対象の質にあります。推し活は有限で変わりやすいものを追い求めますが、信仰は永遠で不変の神に向かいます。神は天地を造られた方で、私たちの存在そのものを支えておられるのです。信仰はただ憧れるだけでなく、神に感謝し、あがめる姿勢です。21節で感謝を忘れることが問題だと指摘されているように、真の信仰は神の恵みに応答するものです。推し活では、ファンが一方的に与えることが多いですが、信仰では神がまず私たちを愛し、与えてくださいます。それに応答して、私たちは神を第一に据え生活を整えます。
 この違いを考えると信仰の尊さが浮かび上がります。信仰は心の空しさを埋め、真の充足を与えます。神を知りあがめることで、私たちの思いはむなしくならず光が差すのです。推し活のような熱狂は一時的ですが、神への信仰は永遠の命につながります。神の栄光は朽ちるものではありません。だからこそ、私たちは被造物を拝むのではなく、創造者をほめたたえるのです。この尊さは日常の小さな感謝から始まります。例えば、自然の美しさに神の力を感じ、感謝する。それが信仰の基盤です。
 しかし、私たちの信仰が知らず知らずのうちに推し活に似てしまう危険もあります。例えば、教会の習慣を形式的に繰り返すだけになったり、特定の教えを偶像化したり。聖書は、そうした自己満足を戒めています。私たちは常に、神ご自身に目を向けなければなりません。神の真理を抑え込まず、素直に受け入れる。それが信仰です。
 日々暮らしていく中で私たちは何を推しているでしょうか。政治や社会の動きに心を奪われやすいですが、そこにあてられて神を自分の都合の良い場所に置かないよう注意していきたいと思います。真の神をあがめ感謝する生活こそ、揺るがない基盤です。神は私たちを愛し導いてくださいます。この真理に立ち返り信仰を深めていきましょう。

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