深谷教会降誕節第6主日礼拝2026年2月1日
司会:落合正久兄
聖書:使徒行伝7章44~50節
説教:「そこに私はいません」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-566,575
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「そこに私はいません」 使徒行伝7:44~50 佐藤嘉哉牧師
私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ 冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる 夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています
この曲は、元々アメリカで書かれた詩が基になっています。原題は「Do Not Stand at My Grave and Weep」(私の墓前に立って泣かないで)で、作者はメアリー・エリザベス・フライ。詩の中で、亡くなった人が語りかけます。「私の墓前に立って泣かないで。私はそこにはいない。眠ってなんかいない。私は千の風になって吹き、雪のきらめきになり、熟れた穀物に降り注ぐ陽光になり、穏やかな秋の雨になる……」という内容です。日本でこの歌が広く知られるようになったのは、2006年のことです。新井満さんが日本語の訳詞を手がけ、テノール歌手の秋川雅史さんが歌ったバージョンが大ヒットしました。テレビ番組で披露されたのをきっかけに、CDがミリオンセラーを記録し、NHK紅白歌合戦にも出場するほど人気を博しました。特に、葬儀やお別れの場でよく歌われ、多くの人が深い慰めを受けました。この歌の魅力は、死んだ人が墓という特定の場所に留まっていないというメッセージにあります。風や光、雪、鳥、星となって、どこにでも広がり、自由に存在している、というイメージです。日本人の心に深く響き、悲しみを優しく包み込むような歌詞が、多くの人々を惹きつけました。このエピソードは、私たちに「存在のあり方」を考えさせるきっかけを与えてくれます。墓前に縛られない魂の自由さが、静かに胸に染み入るのです。この歌が伝えるような思いは、日本独特の信仰のあり方ともつながっています。古くから、私たちは特定の場所に神聖なものを求める習慣を持っています。お宮参りでは、生まれた赤ちゃんを神社に連れて行き、神様に守ってもらうよう祈ります。初詣では、寺社を訪れて新年の幸運を願います。七五三や厄払いも同様で、自分から神のいる場所へ出向き、そこに宿る神々に祈りを捧げるのです。各神社やお寺には独自の神様が祀られていて、その場所こそが神の力の働く場だと信じられています。この文化は、生活に深く根付いていて、自然なものとして受け継がれています。
キリスト教会の中でも、似たような見方が時折現れることがあります。教会の建物や礼拝堂を、神様が特別に住む場所だと考えてしまうのです。私自身、以前所属していた教会の附属施設で働いていた職員を思い出します。その人は子どもたちに礼拝堂を紹介する際、「ここは神様のいる場所だよ」と説明していました。子どもたちに神の存在を身近に感じさせるための言葉だったのでしょうが、私は少し違和感を覚えました。そこで、「ここはお祈りをする場所、神様のお話を聞く場所だよ」とそっと伝えたのです。なぜなら、神様は建物の中に閉じ込められるような方ではないからです。神社や仏閣のように、特定の建築物に唯一の神が宿るわけではありません。神は天地を創造されたお方で、どんな場所にも制限されず、自由に働かれ、聖霊に乗ってわたしたちに出会われる方であるのです。
礼拝堂とはどんな場所なのでしょうか。私たちが集まって心を一つにし、祈りを捧げ、賛美を歌う場です。そこにいる私たち一人ひとりに、神が近づいてくださり、祝福を注いでくださいます。礼拝堂自体が神の力の源ではなく、私たちの信仰の応答が神の臨在を呼び起こすのです。日曜日の礼拝で皆さんが賛美を歌うとき、神の霊がその場を満たすのを感じるでしょう。それは建物のおかげではなく、私たちの心の姿勢によるものです。神は私たちが真剣に求めるときに、どこからでも応えてくださるお方です。家庭での祈りや、日常のささやかな瞬間でも、同じように神の声が聞こえることがあります。場所ではなく、心の状態が大切なのです。この考え方は、墓についても同じです。日本ではお墓参りが大切な習慣で、先祖の霊がそこにいると信じて手を合わせます。しかし、キリスト信仰では亡くなった信者の魂は神の御許に招かれています。ですから、墓前に立って祈る必要はないのです。「千の風になって」の歌のように、魂は特定の場所に縛られず、神の広大な世界で安らいでいます。墓は故人を思い出す記念の場として尊いですが、そこに神の臨在を限定する必要はありません。神は私たちの記憶や心の中で、故人を守ってくださっています。この点で、仏教の葬式とキリスト教の葬儀の持ち方には、決定的な違いがあります。仏教の葬式では、僧侶が経を読み、故人の魂に直接語りかけて成仏するよう導くことが多いです。霊がこの世に留まらないよう、祈りや儀式を通じて送り出すのです。一方、キリスト教の葬儀は、残された家族や友人が悲しむ中で、神からの慰めを伝えることに重点を置きます。故人はすでに神の元にあり、安らかな永遠の命を得ていると信じるので、葬儀は遺族の心を癒し、神の希望を共有する場となります。聖書の言葉を読み、賛美を歌い、神の愛が悲しみを乗り越える力を与えることを強調します。この違いは、神や魂の捉え方に根ざしています。仏教では輪廻や成仏というプロセスを重視しますが、キリスト教では神の恵みによる永遠の命を信じ、残された人々の信仰を強めるのです。この対比を思うと、私たちの信仰がどれほど慰めに満ちたものであるかを再び感じます。
ここで、今日の聖書箇所に戻りましょう。使徒行伝7章44節から50節です。ステパノは、ユダヤの指導者たちに歴史を振り返りながら、神の住まいの本質を語っています。まず、荒野での「あかしの幕屋」を挙げます。「わたしたちの先祖には、荒野にあかしの幕屋があった。それは、見たままの型にしたがって造るようにと、モーセに語ったかたのご命令どおりに造ったものである。」(44節)。この幕屋は移動式で、神の民が旅する中で神の臨在を示すものでした。次に、ヨシュアの時代にカナンの地へ持ち込まれ、ダビデの時代まで受け継がれたと続けます。ダビデは神の恵みを受け、ヤコブの神のために宮を造営したいと願いましたが、実際に建てたのはソロモンでした(46-47節)。しかし、ステパノはここで重要な転換をします。「しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。」。そして、預言者イザヤの言葉を引用します。「主が仰せられる、天はわたしの王座、地はわたしの足台である。どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。これは皆わたしの手が造ったものではないか。」このイザヤ書の引用は、神の超越性を強く示しています。イザヤ書66章1節から2節では、神が天を王座とし、地を足台とするほど物質的な世界を超え、創造主として全てを支配されることを意味します。どんな立派な神殿も、神の大きさを表す足台にさえならないのです。さらに、イザヤ書は「しかし、わたしはこのような者を見る、すなわち、心の貧しい者、霊の砕けた者、わたしのことばに恐れおののく者」と続け、心のへりくだった人に神が目を留めると述べています。神の超越性は、単に遠い存在では広大で、人の手による建物など神を収容できないと語られています。この超越性とは、神がなく、私たちの内側でこそ働くのです。ステパノはこの預言者の言葉を借りて、ユダヤ人たちの神殿中心の信仰を批判します。神殿は大切ですが、神をそこに閉じ込めるものではありません。このメッセージは、当時の聴衆を激怒させましたが、真理を語る勇気を示しています。
ステパノのこの言葉は、当時の人々にとって大きな衝撃をあたえるものであったでしょう。ユダヤ人たちは、エルサレムの神殿を神の絶対的な住まいだと信じていました。しかし、ステパノはそれを相対化します。神は人の手で造った建物に住むような方ではなく、天と地全体を支配されるお方です。真の「神の家」、神の臨在の場は、神ご自身にあり、心のへりくだった人の中にこそ現れるのです。イザヤ書の引用もそれを強調しています。神は宇宙全体を創造されたので、どんな立派な宮殿も神を収めきれないのです。この超越性を理解すると、私たちの祈りが場所に縛られない理由がわかります。神はどこにでもおられ、心を開く者に近づいてくださる。このステパノのメッセージは、今の私たちにも深く響きます。私たちはつい、教会の建物や特定の場所に神を限定しがちです。しかし神の臨在は、私たちの内側、心の姿勢にかかっています。心を低くし、神に信頼する人の中に、神は住んでくださるのです。ステパノ自身この弁明の後で石打の刑に遭いましたが、彼の信仰は揺るぎませんでした。それは神が場所ではなく、心の中にいることを知っていたからです。たとえば、ステパノは死の間際に天を見上げ、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と祈りました。これは、神の超越性を体現した瞬間です。
この御言葉からわたしたちも神の前にへりくだる心を養いましょう。日常の忙しさの中で、神を特定の場所に閉じ込めず、どこにいても神の声を聞く耳を持つべきです。礼拝堂で集うときも、家庭で祈るときも、神の祝福は私たちの信仰に応じて注がれます。職場や学校、旅先でも、神の臨在を感じられるはずです。この心を皆さんと共に分かち合いたいと思います。神の広大な愛に包まれ、心のへりくだりを大切に生きる私たちでありますように。イザヤ書の神の超越性を思い浮かべながら、日々の生活を神中心に整えていきましょう。神は私たちを待っておられるのですから。