「宣べ伝える」ヨハネの黙示録10:8~11

深谷教会降誕節第4主日礼拝2026年1月18日
聖書:ヨハネの黙示録
説教:「宣べ伝える」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-579,520
奏楽:野田治三郎兄

   説教題:「宣べ伝える」ヨハネの黙示録10:8~11   佐藤嘉哉牧師

 今日は、ヨハネの黙示録10章8節から11節を聖書箇所として、お話ししたいと思います。題を「宣べ伝える」としました。この箇所では、天使が持つ小さな巻物をヨハネが受け取り、それを食べる場面が描かれています。口では蜜のように甘く感じるのに、腹の中では苦くなるという不思議な体験です。この出来事は、神の言葉を伝えることの本質を、私たちに教えてくれます。
 まず、ヨハネの黙示録とは一体どのような書物なのか、少しおさらいしておきましょう。新約聖書の最後に位置するこの書は、使徒ヨハネがパトモス島に流刑されていた頃、主イエス・キリストから受けた啓示を記したものです。紀元1世紀末頃、キリスト教会がローマ帝国の激しい迫害にさらされていた時代に書かれました。内容は、幻や象徴が次々と現れ、神の裁き、悪の勢力との戦い、そして最終的な勝利と新しい天地の到来を描いています。七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢など、繰り返しの構造で神の計画の完全さを示し、苦しむ信徒たちに「耐えよ、主は必ず来られる」という励ましを与える書です。決して単なる未来予言の本ではなく、当時の教会が直面していた現実の苦難の中で、神の主権と希望を鮮やかに告げる預言の書なのです。私たちが今日読むときも、ただ遠い未来の話としてではなく、現在の試練の中で神の言葉をどう受け止めるか、という問いかけとして響いてきます。
 この黙示録の10章は、七つのラッパの裁きの途中で挿入された挿話のような場面です。そこに登場する大きな天使と、小さな巻物のエピソードが、私たちに神の言葉の本当の姿を教えてくれます。
 神の言葉はただ心地よいものだけではありません。私たちはしばしば、神の教えを聞くときに励ましや安らぎを求めます。日々の生活を少しでも良くしたい、悩みを解消したいという願いから、聖書を開くことがあります。それは悪いことではありません。しかしそれだけでは、神のメッセージを本当に受け止めているとは言えないのかもしれません。この巻物のエピソードは、そんな私たちの姿勢を振り返らせるものです。甘い味は神の約束の喜びを表し、苦さはその裏側にある厳しさや痛みを象徴します。
 ヨハネは天から聞こえた声に従って、天使のもとに近づきます。そして巻物を食べなさいと言われます。食べると、確かに口の中は甘く満たされますが、腹が苦くなります。この苦さは何を意味するのでしょう。神の言葉には救いの希望だけでなく、裁きや試練の現実も含まれているということです。私たちが神を知ろうとする時、ただ良い面だけを選んで受け取ろうとするなら、それは本当の理解とは違うのかもしれません。神の計画はすべてを包み込むものです。喜びも、悲しみも。
 ここで主イエスの歩みを思い浮かべてみましょう。イエスは地上で多くの奇跡を起こし、人々を癒し、教えまわりました。弟子たちと一緒に過ごす時間は、きっと喜びに満ちていたでしょう。しかしイエスの道はそれで終わりませんでした。エルサレムに向かう道中で、弟子たちに自分の苦しみを予告します。捕らえられ、嘲られ、十字架にかけられるという運命を。イエスは、それを避けようとはしませんでした。むしろ、神の意志として受け入れたのです。あのゲツセマネの園での祈りでは、汗が血のしずくのように滴り落ちるほどの苦悶を味わいました。十字架での死はただの終わりではなく、神の愛を完成させるための使命でした。
 私たちはそんなイエスの道をどう受け止めるのでしょう。試練と出会うことは誰にとっても恐ろしいものです。その中でも死というものは避けて通れぬものです。愛する人を失う悲しみ、自身の命の終わりを想像する不安。死は、避けられない現実として、私たちを襲います。聖書はそれを隠しません。むしろ直視するよう促します。イエスの十字架はその死の重みを教えてくれます。神の子であるイエスでさえ、肉体の痛みと孤独を経験したのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶほどの絶望を。しかし、そこにこそ神の言葉の本質があるのです。甘い約束だけを追い求めるのではなく、苦い現実を認め、そこを通り抜ける道を探ること。
 では、その死をわたしたちはどう捉え、伝えるべきなのでしょう。私たちはただ事実を述べるだけでは不十分です。イエスの死は罪の代価としてのものであり、神の正義を示すものです。しかしそれだけを強調すると、人々は恐れを抱くだけかもしれません。大切なのは、死の向こう側にある希望を共に語ることです。イエスは十字架で死んだ後、三日目に復活しました。あの空っぽの墓は、死が最終的な敗北ではないことを証明します。マグダラのマリアが復活したイエスに出会った時の驚きと喜び。弟子たちが、復活の証人として世界に広がっていった姿。それらは、苦い体験が甘い実りを生む可能性を示しています。
 宣べ伝えるとはそんな全体像を伝えることです。ただ良いニュースだけを飾り立てるのではなく、苦しみの深さを認めつつ、希望の光を指し示す。ヨハネ自身もこの巻物を食べた後、再び多くの人々に預言せよと命じられます。それは甘さと苦さを両方味わった者として、言葉を語る使命です。私たちも同じです。自分の人生で味わった喜びと痛みを、隠さずに分かち合う。それが真の伝道につながるのではないでしょうか。たとえば旧約聖書のエゼキエルという預言者のことを思い出します。エゼキエルは神から巻物を渡され、それを食べるよう命じられます。口では蜜のように甘かったのに、腹の中では苦くなったと記されています。エゼキエルは、バビロン捕囚の時代にイスラエルの民に神の言葉を伝えました。民は神殿が壊され、国を失うという苦い現実を味わっていました。エゼキエルはそれをただ嘆くのではなく、神の回復の約束を語ったのです。乾いた骨が生き返る幻は、絶望の中での希望を象徴します。このエピソードはヨハネの体験と重なります。神の言葉を伝える者はまず自分でそれを内面化し、甘い部分も苦い部分も受け止める。そして人々に届けるのです。
 私たちの日常でも同じことが言えます。病気の苦しみを経験した人が、他者の痛みを理解し、励ます言葉をかけられるように。喪失の悲しみを乗り越えた人が、希望の道を指し示すように。宣べ伝えるとは、そんな個人的な体験から生まれるものです。イエスの十字架と復活を、自分の人生に重ねて語る。死の恐れを認めつつ永遠の命の喜びを共有する。それが、神の言葉を生き生きと伝える鍵です。
 皆さんは『パッション』という映画を観たことがありますか。2004年にメル・ギブソンが監督を務めた映画です。この作品はイエス・キリストの最後の12時間を、聖書に忠実に、そして非常に生々しく残酷に描いたものです。ゲツセマネの園での祈りから始まり、裏切り、拷問、鞭打ち、十字架への道、そして死に至るまでの過程が、容赦なく表現されています。観る者に強烈な衝撃を与え、肉体の苦痛と精神的な孤独をまざまざと見せつけます。多くの人がこの映画を通じてイエスの受難の苦しみと重さを初めて実感したと言います。しかし映画はそこで終わらず、短いながらも復活の場面で締めくくられます。墓から出てくるイエスの姿は静かで力強く、死の闇を打ち破る光として輝きます。この映画はまさに神の言葉の甘さと苦さを視覚的に体現したものです。苦しみの極みを描くことで、復活の喜びがどれほど大きいかを教えてくれます。宣べ伝えるとき、私たちもこのような全体を伝えたいのです。
 もう一つ、2016年にあった『復活』という映画があります。この映画は、十字架刑を執行したローマ軍の百人隊長クラヴィウスが主人公です。彼はイエスの遺体が消えたという報告を受け、捜査を命じられます。弟子たちが隠したと疑いながら追う中で、ついに復活したイエスを目撃します。最初は不信と混乱に満ちていたクラヴィウスが、徐々に信仰へと導かれていく過程が描かれています。信者ではない人の視点から復活の出来事を追うことで、私たちも新鮮にその奇跡を感じることができます。この作品は死の現実を直視しつつ、希望がどのように生まれるかを示す好例です。
 神の言葉は、甘さと苦さを併せ持つものです。私たちは、それを丸ごと受け止め、宣べ伝える者となるよう招かれています。イエスの道を思い、死の現実を直視し、復活の希望を輝かせる。今日ここに集まったわたしたちが、そんな使命を担う一人となることを祈ります。

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