深谷教会降誕節第1主日礼拝(年末礼拝)2025年12月28日
司会:西岡まち子姉
聖書:マタイによる福音書2章1~18節
説教:「光と闇、喜びと悲しみ」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-265,262
奏楽:野田治三郎兄
説教題:「光と闇 喜びと悲しみ」 マタイによる福音書2:1~18 佐藤嘉哉牧師
2025年の最後の礼拝を迎えました。この一年を振り返りながら、私たちはマタイによる福音書2章1節から18節の言葉に耳を傾けます。説教の題は「光と闇 喜びと悲しみ」です。クリスマスは喜びの時です。イエス・キリストの誕生を祝うこの季節は、家族の集まりや温かな灯りに満ちています。しかし、その出来事の背後には深い闇が広がっていました。今日はその闇に目を向けつつ、私たちの毎日の生活に寄り添う形で、そこにこそ必要な光について考えてみたいと思います。特にこの一年の日本で起きた出来事を思い浮かべながら、光となる言葉を探っていきたいと思います。
まず、クリスマスの喜びから始めましょう。マタイの福音書では東から来た博士たちがエルサレムにやって来て、こう尋ねます。「ユダヤ人の王としてお生れになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東にてその星を見たので、拝みにきたのです」。この言葉は、大きな希望を表しています。博士たちは遠い旅を続け、星に導かれてイエスのもとへ到着します。彼らはその星を見て、非常に喜びに満ちました。そして家に入って幼な子を見つけ、ひれ伏して拝み、黄金・乳香・没薬を捧げます。この場面はクリスマスの本質を示しています。神の御子がこの世に来られたという知らせは、人々の心を明るくし、喜びを与えるのです。星の光が暗い夜を照らすように、この出来事は私たちの人生にも希望を届けます。しかしこの喜びの出来事は、すぐに暗い影を落とします。ヘロデ王はこの話を聞いて不安になります。エルサレムの人々も動揺します。ヘロデは自分の権力を脅かす存在を恐れ、祭司長や律法学者を集めて救い主が生まれる場所を尋ねます。彼らは預言者の言葉を引用し、ベツレヘムだと答えます。「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう」。ヘロデは博士たちを呼び、星の現れた時期を詳しく聞き出します。そして彼らをベツレヘムへ送り出し、自分も拝みに行くと言いながら実は幼な子を探し出して殺そうと企てます。この欺瞞は、権力の闇を象徴します。博士たちが帰った後、主の使いがヨセフに夢で告げます。「立って、幼な子とその母を連れてエジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して殺そうとしている」。ヨセフは夜のうちに家族を連れてエジプトへ逃げます。一方、ヘロデは博士たちに騙されたと知り激怒します。彼はベツレヘムとその周辺で、二歳以下の男の子をすべて殺させてしまいます。これは預言者エレミヤの言葉が成就したと記されています。「ラマで声が聞えた。泣く声、大きな叫び声、ラケルがその子らのために哭く、彼女は慰められることを拒んだ。彼らがもはやいないからである」。この悲しい出来事は、母親たちの嘆きを表しています。
この幼児虐殺は、クリスマスの闇を強く示しています。喜びの誕生の陰で、無垢な命が失われる悲劇が起きていたのです。当時の社会はローマ帝国の支配下にあり、ヘロデのような王が残虐な行為を繰り返しました。奴隷制度が当たり前で、人々は重い税に苦しみ、職業や民族による差別が当然のように横行していました。貧しい人々は蔑まれ、命の価値が軽視された時代です。このような闇の中で、イエスの誕生は起こりました。光が深い悲しみの世界に差し込んだのです。私たちの生活にも、このような闇と光の対比が当てはまります。私たちは2025年の終わりに立っています。この一年、日本中がさまざまな困難に直面しました。まず、物価の高騰が多くの家庭を苦しめました。インフレ率が3%前後まで上昇し、食料品やエネルギー価格が跳ね上がりました。東京では、消費者物価指数が予想を上回り、日常の買い物が厳しくなったとあります。例えば、米や野菜の値段が上がり、企業が値上げを続けました。これにより家計は圧迫され、貯蓄が減る人々が少なくありませんでした。政府は予算を増やして対策を講じましたが、効果が十分に及ばなかった地域も多くありました。この物価高は単なる数字ではなく、私たちの毎日の食事や生活費に直結します。朝の食卓で、子どもたちに十分なものを与えられない親の心痛を想像します。
また、自然災害が日本を襲いました。能登半島地震の1周年にあたり、多くの人々が過去の傷を思い起こしました。あの地震で失われた命や家屋の記憶が、まだ鮮やかです。さらに、7月頃にメガクエイクの噂が広がり、実際の地震警報が発令されました。南海トラフ地震の懸念が高まり、各地で避難訓練が増えました。台風や洪水も深刻で、九州や東北で大雨が続き、河川の氾濫が起きました。洪水で家を失った人々、土砂崩れで孤立した村々が連日ニュースで取り上げられました。大規模火災のあった大分の佐賀関がまだ記憶に新しくあります。これらの災害は物理的な被害だけでなく、心の疲弊をもたらしました。復旧作業に追われ、日常が戻らない中で、人々は不安を抱えました。アジア全体の嵐や地震の影響も、日本に波及し、経済や観光に打撃を与えました。
これらの出来事は、日本国民全体の疲弊を象徴します。物価高で生活が苦しくなり、災害で安全が脅かされる中で光を見出すのが難しくなっています。仕事のストレス、家族の心配、健康の不安が積み重なり、心が暗くなります。朝起きて新聞を見ると悪いニュースばかり。希望が薄れる日々です。大阪万博のような明るいイベントもありましたが、全体として闇が濃い一年でした。この状況はクリスマスの時代に似ています。ヘロデの闇の中で、無実の子どもたちが犠牲になったように、今の日本でも弱い立場の人々が苦しんでいます。
しかしこのような闇の中でこそ、光の大切さがわかります。クリスマスの物語は、闇が永遠ではないことを教えてくれます。イエスはその闇のただなかに生まれたのです。博士たちの喜びは、星の光によるものです。ヘロデの計画に対して、神はヨセフを導きイエスを守りました。この光は抽象的なものではなく、私たちの生活に具体的に働きます。イエスは後年、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、いのちの光をもつであろう」と語りました。この言葉は疲弊した私たちへの励ましです。物価高で悩む時、この光は感謝の心を与え、必要なものを分かち合う力を生み出します。災害の後で、この光は希望を灯し、互いに助け合う絆を強めます。
何よりもわたしたちは今年、敬愛する信仰の友との別れがなかったことは本当に喜びです。神はわたしたちを守るだけでなく癒して下さいました。暗い闇のような社会の中にあるわたしたちにこの喜びと癒しを与えてくださったことを思い起こせば、世の闇に心奪われることなどないでしょう。イエスはすべての人が尊い存在だと教えてくれます。災害の記憶がよみがえる夜、この光は恐れを追い払います。光は、祈りを通じて私たちに近づきます。朝の静かな時間に聖書を開き、神の言葉に耳を傾けることで、心が照らされます。隣人を思いやる小さな行動が光を広げます。喜びと悲しみが混在する生活で、光は闇を照らします。イエス・キリストこそ、その光です。2025年の終わりに、私たちはこの光に感謝し、新たな年を歩み出しましょう。神の恵みが、皆さん一人ひとりの毎日に豊かにありますように。
新たな年を、希望を持って迎えましょう。主が共にいてくださいますように。