「先を歩む人」イザヤ書40:1~11

深谷教会待降節第3主日礼拝(降誕前第2主日)2025年12月14日
司会:佐久間久美子姉
聖書:イザヤ書40章1~11節
説教:「先を歩む人」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-236,237
奏楽:野田周平兄

   説教題:「先を歩む人」 イザヤ書40:1~11 佐藤嘉哉牧師

 みなさん、おはようございます。今日はイザヤ書の言葉から始まる希望のメッセージに、心を向けましょう。この箇所は、神の慰めが響き、荒野の声が道を備え、良い知らせが山から叫ばれる内容です。そこで描かれる「先を歩む人」とは、何よりもイエス・キリストご自身を指します。神が力強く来られ、羊飼いのように優しく群れを導く姿が、そこに重ねられています。しかし、イエスがこの世に現れる前に、先んじて道を整えた人物がいました。それが洗礼者ヨハネです。彼はイエスの先駆者として、なぜ必要だったのでしょうか。そしてその存在が、イエスの誕生と公生涯にどんな影響を与えたのかを、共に考えてみましょう。また、この言葉が後世の歴史的な人物や詩にどう響いたかも、合わせて味わいたいと思います。
 まず、この箇所の背景を思い起こします。バビロン捕囚の苦しみの中で、神は突然「慰めよ」と預言者イザヤに命じられます。イスラエルの民が犯した罪への罰は終わり、赦しが与えられたと宣言されるのです。そこから荒野の声が叫びます。谷を埋め、山を低くし、険しい道を平らにせよ、と。すべての人が神の栄光を見るための準備です。この声は、人の儚さを対比しつつ、神の言葉の永遠性を強調します。そして良い知らせを伝える者が現れ、神の到来を告げます。力強い王であり、優しい羊飼いである神の姿です。この預言が成就するのは、新約の時代。イエス・キリストの到来です。イエスこそが、この「先を歩む人」の本質です。神の言葉が肉となってこの世に来られ、私たちの道を先導されました。十字架の苦しみを先に歩み、復活の希望を開かれたのです。しかし、イエスが公に現れる前に、洗礼者ヨハネが先を歩みました。彼はイザヤ書のこの声が伝えた言葉。「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの山と丘は低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。」という言葉そのものです。新約の福音書は、ヨハネの登場をこの預言で紹介します。荒野で叫ぶ者として、悔い改めを呼びかけ、主の道を備えたのです。
 なぜヨハネがイエスの前に必要だったのでしょうか。旧約の最後の預言者マラキから約400年、神の声は沈黙していました。人々はローマ帝国の支配下で重税に苦しみ、宗教指導者たちの形式主義に失望し、メシアを待ち焦がれていました。そんな閉塞した時代に、ヨハネが現れます。らくだの毛衣を着け、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べて暮らす厳しい生活。旧約の預言者エリヤを思わせる姿で、ユダヤの荒野に立ち、「悔い改めなさい。天の国が近づいた」と叫びました。人々は遠くから押し寄せ、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けました。これは単なる外的な浄めではなく、心の向きを変える象徴でした。ヨハネの役割は、メシアを迎える心の準備です。人々が罪を認め、神に立ち返らなければ、イエスのメッセージは受け入れられにくかったでしょう。ヨハネは権力者にも妥協せず、ヘロデ・アンティパス王の不倫を公に非難しました。そのため投獄され、最終的に首をはねられる殉教の道を歩みます。それでもヨハネは、自分を主役にせず、「私より力のある方が後から来られる。私はその方の履物のひもを解く値打ちもない」と謙遜に証しします。彼はあくまで指し示す者、道を整える者に徹したのです。
 ヨハネの存在は、イエスの誕生にも深く関わります。ルカ福音書は、ヨハネの誕生を天使ガブリエルの告知から描きます。高齢の両親ザカリアとエリサベトに子が生まれる奇跡。同じ天使がマリアにも現れ、イエスの誕生を告げます。エリサベトはマリアの親族ですから、二人の母はつながっています。マリアが訪ねると、胎内のヨハネが喜び躍り、エリサベトは聖霊に満たされて預言します。この場面は、ヨハネが胎児のときからすでにイエスの先駆者として反応していたことを示します。神の計画は、ヨハネの誕生とイエスの誕生を密接に結びつけ、救いの物語を織り上げていたのです。特に決定的な影響は、イエスの公生涯の始まりです。イエスが30歳頃、ガリラヤを離れてヨルダン川へ来られ、ヨハネから洗礼を受けられます。ヨハネは「私こそあなたから洗礼を受けるべきです」と拒もうとしますが、イエスは「今はそうさせてください。正義を全うするためです」と答えられます。この瞬間、天が開け、聖霊が鳩のように降り、神の声が響きます。「これは私の愛する子、私の心に適う者」。この出来事は、イエスの公生涯の公式な幕開けです。ヨハネの洗礼運動がなければ、この劇的な承認の場面は生まれませんでした。また、イエスの最初の弟子たち――アンデレ、ヨハネ、ペトロら――は、ヨハネの弟子から移りました。ヨハネが「見よ、神の小羊」とイエスを指し示した言葉が、彼らを動かしたのです。ヨハネの影響力は広く、ヘロデ王でさえ恐れたほどでした。
 このイザヤ書の言葉は、後世の歴史的な人物にも大きな感動を与えました。18世紀の作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは、深刻な危機の中にいました。オペラの失敗が続き、借金が積もり、1740年には脳卒中で左半身が麻痺。温泉治療も効果なく、絶望の淵にいました。1741年夏、友人チャールズ・ジェネンズから聖書の言葉を集めた台本を受け取ります。その中にイザヤ書40章が冒頭に置かれていました。ヘンデルはロンドンの自宅にこもり、わずか24日で全曲を完成させます。筆が止まらず、食事も忘れ、涙を流しながら書いたと言われます。特に「ハレルヤ」コーラスを書いたとき、使用人が部屋に入るとヘンデルは「天を見た」と叫んだそうです。初演は1742年ダブリンで大成功。王ジョージ2世が「ハレルヤ」で起立したため、以後聴衆も立つ習慣が生まれました。ヘンデルは晩年、毎年この作品を慈善演奏し、ロンドンの捨子養育院に多額の寄付をしました。何千人もの孤児が救われたのです。視力を失っても指揮を続け、1759年最後の演奏会の8日後に亡くなりました。「メサイア」は今も、世界中でクリスマスや復活祭に歌われ、人々に慰めと希望を届け続けています。ヘンデルにとって、このイザヤ書の言葉は、まさに人生の荒野を照らす光だったのです。
 また、19世紀のイギリス詩人クリスティーナ・ロセッティは、アドベントの詩「Love came down at Christmas」で、この羊飼いのイメージを優しく歌いました。”Love came down at Christmas, Love all lovely, Love divine; Love was born a child on Christmas Day, Earth had never known such love.”「愛はクリスマスに降りてきた、愛らしく、神聖な愛。愛はクリスマスに子供として生まれ、地球はこれほどの愛を知らなかった。」この詩は、単純な言葉で繰り返される「Love(愛)」が印象的です。ロセッティは、星や天使のような派手なしるしではなく、私たちが互いに与え合う愛こそが、神の到来の真のしるしだと歌います。イザヤ書の力強い神の到来と優しい羊飼いの姿が、ここでは静かな降誕の愛に結びつき、私たちの日常にまで届くメッセージとなっています。アドベントやクリスマスの礼拝で歌われる理由がよくわかります。ロセッティ自身は病弱でしたが、深い信仰から多くの美しい詩を残しました。この詩も、作者の優しい心がにじみ出ています。
 今日の題「先を歩む人」は、イエスを指しますが、ヨハネはその影のような存在です。ヨハネがいなければ、イエスのメッセージは広がりにくかったでしょう。彼は「彼は栄え、私は衰えなければならない」と言い、自分の役割を全うしました。私たちも、アドベントのこの時期、クリスマスを待つ今、イエスのために道を備える者となりたいものです。心の荒野を整え、悔い改め、良い知らせを伝える。苦しむ人に慰めを、弱い者に優しさを。神は今も、私たちに呼びかけます。イエスが先を歩み、永遠の道を開かれました。ヨハネのように、その道を指し示す者となりましょう。この約束が、私たちの歩みを支えます。

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