深谷教会待降節第2主日礼拝(降誕前第3主日)2025年12月7日
司会:落合正久兄
聖書:エレミヤ書36章1~10節
説教:「神から人へ、人から人へ」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-241,128
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「神から人へ 人から人へ」 エレミヤ書 36:1~10 佐藤嘉哉牧師
アドベント第二主日、救い主の到来を待ち望むこの朝に、私たちは旧約聖書エレミヤ書36章の出来事に心を留めたいと思います。本日の聖書箇所であるエレミヤ書を記した、エレミヤとはどんな人だったでしょうか。彼は紀元前626年頃、祭司の家に生まれ、二十歳前後に神の召しを受けました。まだ若く口下手だと恐れる彼に、神は「わたしはあなたが生まれる前からあなたを知り、母の胎内であなたを聖別した」と告げ、口に触れて「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れる」と約束されました(エレミヤ1:5-9)。しかしその生涯は苦しみに満ちていました。神の厳しい裁きのメッセージを語るたびに、王からも祭司からも民からも憎まれ、鞭打たれ、泥の牢に投げ込まれ、殺されかけたことが何度もあります。それでも彼は語り続けることをやめられませんでした。なぜなら、神の言葉が彼のうちで「燃える火となり、骨の中に閉じ込められて、わたしは疲れ果てて耐えることができない」と感じたからです(20:9)。彼は自分の感情や思いを優先せず、ただ神の言葉を忠実に伝えることだけに生きた人でした。
36章の出来事は、エレミヤが預言者として立てられてから二十三年目のことです。バビロンの脅威が迫り、ユダの滅びが目前に迫る中で、神はエレミヤに命じられました。「これまでわたしがあなたに語ったすべての言葉を、一つの巻物に書きしるせ。あるいはユダの民が、自分たちに臨もうとしているわざわいを見て、悔い改めるかもしれない」。しかしこのとき、エレミヤはすでに宮への立ち入りを禁じられ、拘禁状態にありました。そこで彼は信頼する書記バルクを呼び、口述し、バルクが一字一句書き取ったのです。そして断食の日に、多くの民がエルサレムの宮に集まるその機会を捉えて、バルクが巻物を手に立ち、高らかに読み上げました。ここに、神の言葉が届く道筋がはっきりと示されています。神からエレミヤ・バルクから民。このように、神の言葉は決して天から直接響く雷鳴ではなく、いつも人間の声、人間の手、人間の歩みを通して伝えられていくのです。神は全能ですから、雲を裂いて直接語ることもできたはずです。しかし神が選ばれた方法は、あえて脆く、限られた人間の口と耳を用いることでした。なぜでしょうか。それは、神が私たちに「関係」を求めておられるからです。神は一方的に命令するだけの独裁者ではなく、私どもと顔と顔を合わせて語り合うことを望んでおられるのです。この「神から人へ、人から人へ」という流れは、まさにクリスマスの出来事そのものです。永遠の神の言葉であるロゴスが、肉となってこの世に降り、マリヤの胎に宿り、馬槽に寝かされた。神が人となり、人として語り、人として歩み、人として死に、人として復活された。こうして、神の究極の言葉は、もはや巻物や預言者の声ではなく、主イエス・キリストという「ひとりの人」となって私どものただ中に住まわれたのです。
主イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。すべての恵み、すべての赦し、すべての命は、今や主イエスを通らなければ私たちに届かない。神から主イエスへ、そして主イエスから私たちへと、すべての流れが一本化されたのです。同時に、主イエスは弟子たちに命じられました。「あなたがたは行って、すべての民を弟子としなさい」(マタイ28:19)。「わたしの名を呼び求める者は、だれでも救われる。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めるだろうか。聞いたことのない者を、どうして信じるだろうか。宣べ伝える者がいなければ、どうして聞くだろうか」(ローマ10:13-14)。つまり、福音もまた、主イエスから弟子たちへ、弟子たちから教会へ、教会から私たちへ、そして私たちから次の人へと、途切れることなく伝えられていくものなのです。
今朝、私たちがここに集い、聖書を開いていること自体が、この長い連鎖の最新の輪の一部であることを忘れてはなりません。エレミヤが牢の中で口述した言葉が、バルクの筆になり、民の耳に届き、後に巻物としてまとめられ、数百年の時を経て聖書となり、今、私たちの母語で読まれている。この驚くべき道のりを思うとき、ただただ感謝するしかありません。しかし、同時に私たちは問われています。私たちはこの言葉を、ただ自分の心の慰めとして終わらせるのでしょうか。それとも、次の誰かに手渡す者となるのでしょうか。職場で、学校で、家庭で、SNSで、あるいは沈黙の中で祈るとき、私たちはすでに「人から人へ」の担い手とされているのです。
実際、そんな生き方を私たちに示してくれた人が、つい八十年前にもいました。ドイツの牧師ディートリヒ・ボンヘッファーです。彼はナチスに抵抗し、ヒトラー暗殺計画に加担したかどで1943年に逮捕され、独房に繋がれました。死を目前にしながらも、彼は看守に託した小さな紙切れに、聖書の言葉と祈りを書き残し続けました。看守はそれを密かに家族や友人に届け、やがてそれらは『獄中書簡』として世界中に広まりました。ボンヘッファーは処刑される前日、隣の独房のイギリス人捕虜に「明日、私は吊るされる。でも主は共にいてくださる。あなたも希望を失わないでください」と語りかけました。そして1945年4月9日、フラッセンブルク強制収容所で三十九歳の若さで命を奪われました。彼が獄中で書いた詩に、こんな言葉があります。
「わたしたちは神の手に守られ
どんな力もわたしたちを引き離すことはできない
苦しみも、悩みも、迫害も、飢えも、危険も、剣も
わたしたちを神の愛から引き離すことはできない」
まさにエレミヤが牢の中でバルクに口述したように、ボンヘッファーは鉄格子の中で神の言葉を書き、看守の手から手へ、独房から独房へ、そして今、私たちの手元にまで届けてくれたのです。拘禁され、声を奪われ、命すら奪われたはずの人が、それでも神の言葉を「人から人へ」と手渡し続けた。この事実は、私たちに大きな勇気を与えます。私たちもまた、どんな小さな場所にいようとも、どんなに声が届きにくいと思えるときも、神の言葉を次の人に渡すことが許されている。そしてその言葉は、決して無駄にはならない。エレミヤの巻物が焼かれても再び書かれ、ボンヘッファーの紙切れが破られても世界に広がったように、神の言葉はいつも、必ず、次の人の心に火を灯すのです。
クリスマスは、神が私たちに近づいてくださった出来事であると同時に、私たちが神の言葉を携えて人々に近づいていく季節でもあります。羊飼いが天使の知らせを町に伝え、マギが星に導かれて幼子を礼拝し、その喜びを携えて帰っていったように、私たちもまた、小さな光を灯し、暗い場所にその光を届ける者とされたのです。神の言葉は、決して私たちのところで止まることを喜ばれません。それは川のように流れ、風のように吹き、種のように蒔かれて、実を結ぶために、いつも次の人に渡されていくものだからです。どうかこのアドベント、私たちが聞いた言葉を、ただ胸に抱きしめるだけでなく、誰かにそっと手渡す者とならせてください。主イエスが私たちに語りかけてくださったように、私たちもまた、誰かに主イエスの名を語ることができますように。神から人へ。人から人へ。この尊い連鎖の中に、今、私たち一人ひとりが確かに置かれていることを、心から感謝しつつ歩んでいきましょう。