深谷教会降誕前第5主日礼拝2025年11月23日
司会:山口奈津江姉
聖書:サムエル記上16章1~13節
説教:「ダビデ王」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-226,510
奏楽:野田治三郎兄
説教題:「ダビデ王」 サムエル記上16:1~13 佐藤嘉哉牧師
今日、私たちは旧約聖書のサムエル記上16章1節から13節までを共に読み、神の言葉に耳を傾けたいと思います。この箇所は、イスラエルの歴史において決定的な転換点となりました。神が一度王として選ばれたサウルを退け、新しい王としてまだ少年であったダビデに油を注がれる場面です。この出来事は、単なる王の交代劇ではありません。私たちの救い主イエス・キリストへとつながる大きな物語の始まりなのです。
神は預言者サムエルに言われました。「わたしが既にサウルを捨てて、イスラエルの王位から退けたのに、あなたはいつまで彼のために悲しむのか。角に油を満たし、それをもっていきなさい。あなたをベツレヘムびとエッサイのもとにつかわします。わたしはその子たちのうちにひとりの王を探し得たからである」。サムエルは恐れました。サウル王がまだ生きており、権力を握っているからです。もし自分が別の者を王に任命するために出かけたことが知られたら、命を奪われるかもしれない。しかし神は「一頭の子牛を引いていって、『主に犠牲をささげるためにきました』と言いなさい。」と知恵を与え、サムエルをベツレヘムへと向かわせました。エッサイの家に着くと、サムエルはまず長男エリアブを見ました。背が高く、立派な体格、堂々とした風貌です。サムエルは心の中で思いました。「なるほど、主の前で油を注がれる者はこの人だろう」。しかし主ははっきりと告げられました。「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。次にアビナダブ、シャンマと続けて7人の息子たちがサムエルの前に通りました。一人一人、立派で頼もしく見える者ばかりでした。しかし主は誰にも「これだ」とは言われませんでした。サムエルはエッサイに「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」と尋ねます。エッサイは少し恥ずかしそうに答えました。「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。その子はまだ少年で、家族の中でも重要な役目を任される年齢ではありませんでした。家では「羊の番をしている末っ子」としか見なされていなかったのです。サムエルは言いました。「人をやって連れて来なさい。彼が来るまでは食事を始めません」。やがて少年ダビデがやって来ました。聖書は「彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった」と記しています。主が選ばれる者は美しいということが言いたいのだろうと想像します。そして主はサムエルに告げられました。「立て、彼に油を注げ。これがその人だ」。サムエルは角から油を取り、兄弟たちの前でダビデに注ぎました。その日から、主の霊が力強くダビデに臨んだのです。
皆さん、ここで私たちは驚くべき神の選びを目の当たりにします。イスラエルの人々が求めていた王は、背が高く、戦に強く、威厳に満ちた人物でしたから、サウルはその典型でした。しかし神が選ばれたのは、誰もが「まさか」と思うような少年ダビデでした。家族でさえ、彼を王の候補に挙げることすら思い浮かべなかった。食卓の場にも招かなかったのです。それなのに神はダビデの心を見て、「これこそわたしの王だ」と定められました。この選びは、決して一回限りの出来事ではありません。神の選びは常に人の価値観を覆します。ダビデの家系は後にユダ族として続き、そこからイエス・キリストがお生まれになりました。ルカによる福音書が記す系図を見ると、ダビデの子ソロモンから始まり、何代も続いて主イエスの父ヨセフに至ります。マタイ福音書もまた「アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロン捕囚まで十四代、バビロン捕囚からキリストまで十四代」と、ダビデが救いの歴史に大きくかかわる人物であると据えられていることを示しています。
考えてみてください。神は世界の王として、皇帝の宮殿に生まれる方を送ることもおできになりました。ローマの権力の中枢に、輝かしい栄光のうちに降誕させることも可能でした。しかし神が選ばれたのは、ナザレという小さな村の大工ヨセフとマリヤの子として、馬小屋に生まれるイエスでした。生まれたときから「この子が救い主だ」と誰も気づかないような方でした。人生において最も無防備で、人の手を介さなければ生きていくことのできない最も弱い状態でこの世に生まれたのです。成長して公に現れたときも、人々は「ナザレから何か良いものが出るはずがない」と軽んじました。それでも神は言われるのです。「これこそわたしの愛する子、わたしが選んだ者だ」と。
イエスの昇天の後に、数えきれないほどの人々を救いの道に導いた使徒パウロも、コリントの教会にこう書き送っています。「見なさい、あなたがたの召された者たちを見なさい。知恵ある者が多く、力ある者が多く、身分の高い者が多くいるのではありません。ところが神は、知恵ある者を恥じ入らせるために世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために世の弱い者を選ばれました」(1コリント1:26-27)。まさにダビデの選びと同じです。神は人の目には愚かで弱く見える者をこそ選ばれ、栄光を現されるのです。
神の目は、人の目とは全く違います。私たちはすぐに外見で判断します。学歴、地位、財産、才能、容姿、口の上手さ。そういうもので人を測ります。しかし神は心をご覧になります。謙遜な心、従順な心、主に信頼して歩む心、愛と憐れみに満ちた心。それこそが神の目に尊いのです。
私自身を振り返ってみても、神の選びがどれほど不思議であるかを実感します。私は自分を立派だと思ったことは一度もありません。むしろ、いつも足りなさを覚える者です。言葉も拙く、立派な働きができるとも思えません。それでも神は私をここに牧師として立ててくださいました。皆さんの前に立って御言葉を語る役目を担わせてくださった。これは私の能力や価値によるのではありません。神が「この者に目を留めよう」と決めてくださったからです。人の目には「なぜこの人が?」と思われるかもしれません。しかし神は「わたしはこの心を知っている」と選んでくださるのです。
皆さんも同じです。自分をどれほど小さく、取るに足らない者だと思っていても、神はみなさんひとりひとりをご存じです。みなさんの心の奥底をご覧になって、「この人をわたしは愛する。この人にわたしは目を注ぐ」と決めておられます。世の中の価値観に振り回されて、自分を卑下する必要はありません。神の目には、みなさんこそかけがえのない存在なのです。だからこそ、私たちは心を主に向け続けましょう。外側の立派さを追い求めることよりも、心を神に開き、神の御声に聞き従う者でありたいと願いましょう。ダビデは羊を追う中で賛美し、祈り、神と共に歩むことを学んでいました。だからこそ、神は彼を王座へと引き上げられたのです。
主イエス・キリストもまた、私たちのためにそのような道を歩まれました。十字架という最も惨めな死に方を選び、私たちの罪をすべて背負ってくださいました。人の目には敗北であり、恥であり、失敗に見えた死でした。しかし神はその死を通して、永遠の勝利を与え、全人類の王、救い主として復活させてくださいました。
今日、ここに集まった一人一人が、ダビデのように、イエスのように、パウロのように神の目に留められた者であることを覚えましょう。神はわたしたちを見捨てません。わたしたちを軽んじません。わたしたちのうちに働く聖霊によって、わたしたちを神の国のために用いてくださいます。どうかこの一週間、心を主に向けて歩んでください。人の評価に惑わされることなく、主の御前に正しく立ち、主の喜ばれる者として生きる者とならせていただきましょう。主が私たちを選んでくださったことへの感謝と喜びを胸に、この礼拝を献げ、主の祝福を共にいただいてまいりましょう。