深谷教会降誕前第6主日礼拝2025年11月16日
聖書:出エジプト記6章2~13節
説教:「わたしは主である」」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-236
奏楽:野田周平兄
説教題:「わたしは主である」 出エジプト記6:2~13 佐藤嘉哉牧師
出エジプト記6章2節から13節です。神はモーセに語りかけます。「わたしは主である」。この言葉は、荒野の叫びを聞く神の声です。モーセはエジプトで苦しむ民の嘆きを背負い、神の前に立ちます。ですが、彼は自分の無力さを痛感していました。先週の創世記15章で、神はアブラムに現れ、「わたしはあなたの盾である」と宣言し、子孫と土地を約束しました。あの夜、神は松明と炉の火となって契約を結びました。そのような圧倒的な契約が過去に交わされ、その主本人であると神が言ってもモーセは躊躇します。民は聞き入れず、ファラオも拒絶しました。神は再び語ります。「わたしは主である」。この宣言は、モーセの心を揺さぶります。神は過去の約束を思い起こさせます。アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として知られましたが、今、自らの名を「主」として明らかにします。これは単なる名前の変更ではありません。神の本質が、契約の忠実さとして示される瞬間です。
神は続けます。「今、あなたは、わたしがパロに何をしようとしているかを見るであろう。すなわちパロは強い手にしいられて、彼らを去らせるであろう。すなわちパロは強い手にしいられて、彼らを国から追い出すであろう」。モーセはこれを聞きますが、疑念が消えません。民は苦役に疲れ、パロ即ちファラオは心を頑なにします。神はモーセとアロンに命じます。「イスラエルの人々をエジプトから連れ出せ」。しかしモーセは答えます。「イスラエルの人々がわたしを信じないのに、どうしてファラオが聞くでしょう。わたしは口が重いのです」。神はこの弱さを無視せず、そこに介入します。モーセの言葉の不自由さは、神の力の舞台となります。
この場面はモーセへの励ましです。神はモーセの限界を知りながら、民を導く者として選びます。失敗を繰り返すモーセに、神は繰り返し語るのです。「わたしは主である」。これは、先週の創世記15章と深くつながります。アブラハムが神の「盾である」という言葉に「どうしてそれが分かるのか」と問うた時、神は契約を結びました。松明の火は、神の臨在を示しました。神はモーセに同じ契約の神として現れます。モーセは言い訳しますが、神は再び確約します。モーセの心を強めるために、神は自分の名を強調するのです。この名は行動の保証とも言えます。神は約束を守る者としてモーセを支える立場となり、救いの御業を成し遂げるのです。
この言葉は、モーセだけに向けられたものではありません。私たちにも響きます。日常の苦難の中で、私たちはモーセのように感じます。重い責任を負い言葉が出ない時。計画が崩れ希望が見えない時。大きな悩みの前に希望が見えない時。神はそこに立ちます。「わたしは主である」。この声は私たちの弱さを温かく包みます。神は私たちの不十分さを、力の源としてくださるのです。モーセが口が重いように、私たちも不完全です。ですが神はそれをあえて用います。励ましは自己改革ではなく、神の主権への信頼となっていくのです。
神の示しは歴史を通じて現れます。エジプトからの脱出はその一例です。神は約束通り、腕を伸ばします。紅海の奇跡、荒野の導き。これらは神の名が真実である証です。しかし、最も決定的な示しは、主イエス・キリストの十字架にあります。創世記15章の契約は、子孫を星のように増やす約束でした。その子孫の頂点がイエスです。神はモーセに約束した救いを完全にするために、御子なる主イエス・キリストを送ります。イエスがこの世に生まれたのはなぜでしょうか。神の主権を愛として示すためです。イエスはエジプトの奴隷状態を象徴する罪の鎖から、人々を解放します。人々はファラオのように、心を頑なにする生き物です。だからこそ神はその心を解きほぐすため、イエスをこの世に与えられたのです。完璧な者には何もいりませんよね?不完全であるからこそ、愛が注がれるのです。
十字架は神の腕が伸びる場所です。そこでは大いなる裁きが下りますが、それはイエス自身に及びます。神は罪を罰しますが、御子に代わりに負わせます。イエスは苦しみ、叫びます。「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てたのですか」(マタイ27:46)。これは、モーセの嘆きを思い起こさせます。モーセは民の拒絶に直面しましたが、イエスは全人類の罪を背負います。十字架は神の約束の成就です。アブラハムに語られた祝福は、イエスを通じて広がります。神は「わたしは主である」と宣言し、それを血で証明するのです。
イエスの誕生はこの計画の始まりです。ベツレヘムの馬槽に神の御子が来ます。無力な姿で、ですが全能の神として。イエスは成長し、教え、癒します。最終的に十字架へ向かいます。主はなぜこの世に生まれたのでしょうか。生まれながらに十字架を身に帯びていたのは何故でしょうか。神の名を贖いの行為として明らかにするためです。モーセは民を物理的な奴隷から救いましたが、イエスは霊的な自由を与えます。十字架はモーセの使命の延長であり、人類を新たな歩みへと導くための標です。神はモーセに「連れ出せ」と命じたように、イエスに「贖え」と命じます。イエスの死と復活は、神の主権の頂点なのです。
私たちはこの示しに生きています。モーセのように任務を与えられます。言葉が不自由でも、神の前では立つことさえできないほどの身でありながらも、神は用います。十字架を見上げる時、神の励ましが分かります。イエスは私たちのために死に、復活された。これにより、神は「わたしは主である」と今もわたしたちに語ります。疑念が襲う時、この言葉を思い出したいと思います。神は約束を破りません。モーセの物語は私たちの鏡です。神は私たちを選び弱さを力に変えます。
出エジプトの出来事は予型です。エジプトはこの世界、ファラオは人々、モーセは導き手ですが、主イエス・キリストの十字架がなければ完全ではありません。十字架は罪から逃れるための究極の手段であります。そこから私たちは新しい命に入るからです。私たちはモーセのように神の声に耳を傾け、十字架を指し示していきたいと思います。
この説教はモーセの経験から始まり、私たちにその頂を告げます。創世記15章の松明の火は今も燃えています。神は変わりません。「わたしは主である」。この宣言は励ましの源です。十字架を通じて、イエスの誕生の意味が明らかになります。ヨハネによる福音書3:16には「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった」。という言葉があります。これが、神の主権の現れです。私たちはこの愛に応えるべきです。モーセが神に従ったように私たちも従うべきです。
神の言葉は生きています。モーセに語られたように、私たちにも語っています。苦難の荒野でこの声が響くように、わたしたちにも注がれているのです。十字架は勝利のしるしです。イエスは死を打ち破り復活しました。これにより神の約束は確かなものとなりました。私たちは恐れず進みます。神の腕は今も伸びています。モーセの使命は続き、私たちがその使命を担っていかなければいけません。イエスの名により自由を宣べ伝えるという使命です。
最後に思い浮かべましょう。モーセは神の前に立ち委ねました。私たちも同じです。十字架のイエスを見る時、「わたしは主である」という神の励ましが満ちます。この言葉で今日も生かされていることに感謝いたしましょう。神の計画は完璧なのですから。