「流れた血が」創世記4:1~10

深谷教会降誕前第8主日礼拝2025年11月2日
司会:高橋和子姉
聖書:創世記4章1~10節
説教:「流れた血が」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-456,457
奏楽:杉田裕恵姉

     説教題:「流れ出た血が」 創世記4:1~10   佐藤嘉哉牧師

 創世記4章の冒頭で、私たちは人類の最初の家族の姿を目にします。アダムとイブはエデンの園を追われ、汗と涙の荒れ地で子を産みました。長男のカインは土を耕す農夫となり、次男のアベルは羊を飼う牧者となります。二人はそれぞれの仕事に励み、やがて神に供え物をささげる日が来ます。カインは地の産物、つまり畑から収穫した穀物を、アベルは羊の初子とその脂、つまり群れの中でも最も尊い部分を捧げました。すると神はアベルの供えに目を留められましたが、カインの供えには目を留められませんでした。カインはひどく怒り、顔を伏せてしまいます。神は優しく、しかしはっきりと告げられました。「なぜ怒るのですか。善を行えば受け入れられるでしょう。罪は戸口で待ち伏せています。あなたはそれを支配しなさい」。しかしカインはその言葉を心に留めず、アベルを野原に誘い、突然襲いかけて殺してしまいました。アベルが倒れ、流れ出た血が土に落ちていきます。神は再び声をかけられます。「弟アベルはどこにいるのですか」。カインは冷たく答えます。「知りません。わたしは弟の番人ですか」。すると神は言われます。「あなたは何をしたのです!あなたの弟の血が地から叫んでいるのです」。この物語は単なる兄弟間の悲劇ではありません。人間の罪がどこから始まりどのように広がるかを、鮮やかに描き出しています。罪は楽園の外で生まれ、家族という最も近い関係の中に深く根を張ります。アダムとイブは善悪を知る木の実を食べ、神の命令を破りました。その瞬間、恥と恐れが生まれ、互いを責め合い、神を避けるようになりました。罰として、女には産みの痛み、男には土の呪いが与えられました。楽園を失った二人は、互いを責めることなく生きなければなりませんでしたが、罪は遺伝するように子に及びました。同じ母の胎から生まれ、同じ地に住み、同じ空気を吸うカインとアベル。それなのに二人の道は早くも分かれてしまいます。仕事も生き方も供え物の選び方も、すべてが異なっていました。
 供え物の違いは、単なる品物の差ではありません。そこには心の姿勢が問われていたのです。アベルは羊の群れの中から最も優れた初子を選び、その脂まで丁寧に捧げました。それは「神に最善を」と願う心の表れでした。一方、カインは畑の収穫物を持ってきたものの、特に選りすぐった様子はなく、ただ「あるものを」差し出しただけでした。神は心を見抜かれます。人は外見や量で判断しますが、神は内側、動機と献身の深さをご覧になります。カインはその拒絶を、自分の存在そのものの否定と感じました。弟の成功が、自分の失敗をより大きく際立たせたと妬みました。神は「もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。」と警告しました。しかしカインは耳を貸さず、怒りを胸に抱え続けました。そしてある日計画的に弟を野に誘い、石を振り上げて命を奪いました。流れ出た血が土に染み込み、無垢な命の叫びが天に届きます。神は再び問われます。「弟はどこにいるのですか」。カインは責任を逃れようとします。「知りません。わたしは弟の番人ですか」。しかし血は隠せません。地から叫びが上がり、神の耳に届くのです。
 アダムとイブの罪は、家族の崩壊の種を蒔きました。知恵の実を食べたとき、関係は歪み始めました。恥じらい、隠れ、互いを非難する。神を避ける。その罪は子に及び、カインの心に暗い影を落としました。神の拒絶はカインにとって「自分は愛されていない」という確信となりました。弟の祝福は自分の呪いのように感じられました。嫉妬は小さな火種から始まり、憎しみの炎へと燃え上がります。殺人は衝動ではなく計画された行為でした。野に誘い、隙を突き、襲う。罪は心の中で育ち行動に移るのです。現代の私たちも、同じ道を歩んでいる様に感じます。自分とは思いが違うから陥れようという姿が嫌と言うほど見えてきます。特に炎上という言葉を聞かない日がないくらいです。血は流れなくても、心は死に、関係は壊れます。カインの怒りは私たちの怒りです。罪は形を変えても根は同じです。神の警告は今も響きます。「罪は門口で待ち伏せています」。
 アベルの血が神に訴えます。神はカインを激しく罰し、カインは放浪者となりました。耕しても収穫は得られず、定住も許されません。罪を犯したなら当然の報いだ!とわたしたちは思うかもしれません。しかし神は完全に捨てられたというわけではないことがわかります。カインが「誰かに殺される」と恐れたとき、神は印を付け、「カインを殺す者は七倍の報いを受ける」と宣言されました。罪人を裁きつつ、なお憐れみを示される。ここに神の二つの顔が見えます。義なる裁きと、憐れみ深い愛です。アベルは死にましたが、その血は後の出来事を予表します。無実の血が流され、地に染みる。やがて別の血が流れます。ゴルゴタの丘における主イエスの血です。
 今、私たちは降誕前の季節を迎えています。クリスマスを待つアドベントやクリスマスの時期に、教会やクラシックコンサートではヨハン・ゼバスティアン・バッハの「クリスマス・オラトリオ」が響きます。鳴り響くティンパニーの音、きらびやかなオーケストラの響き。クリスマスの華やかさを現わすかのように鳴り響きます。しかし突然その明るく華やかな曲調が一転して、重く暗い曲が始まります。「血潮したたる頭よ」というコラールです。「讃美歌21」の311番「血しおしたたる」としてよく歌いますね。もとは復活節の賛美ですが、バッハはあえてクリスマスの物語に挿入しました。なぜでしょうか。イエス・キリストがベツレヘムの飼い葉桶に生まれたその瞬間から、すでに十字架の影が落ちていたからです。幼子イエスは、柔らかな布に包まれていますが、その背後には茨の冠と釘と槍が待っています。天使の歌声が響く夜、遠くにゴルゴタの丘が見えるかのようです。クリスマスは喜びの祝いですが、同時に贖いの始まりでもあるのです。イエスは生まれたときから、十字架を身に帯びていたのです。
 主イエスは罪のない方でした。カインのように怒りを爆発させず、アベルを殺しませんでした。むしろ罪人を愛し、敵のために祈られました。「父よ、彼らを赦してください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)。十字架にかけられたとき、血が流れました。鞭打ちの傷から、茨の冠の刺し傷から、そして最後に槍で脇腹を刺され、血と水が流れ出ます。その血はアベルの血と重なりますが、意味はまったく異なります。アベルの血は「裁きを」と叫びますが、主イエスの血は「赦しを」と叫びます。アベルの血は神に訴え、罪を問います。主イエスの血は神に願い、罪を覆います。同じ血、同じ地。しかし結果は正反対です。一方は呪いとなり、一方は祝福となります。やがて来るアドベントのキャンドルを灯すとき、私たちはこの血を思い起こします。クリスマスの星の下に、十字架の血がすでに流れ始めているのです。
 使徒パウロはコリント人への手紙で、聖餐の意味をこう説明します。「主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝して裂き、『これはあなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこれを行え』と言われました。また、食事の後、杯も同じようにして、『この杯はわたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念としてこれを行え』と言われました」(1コリント11:23-25)。聖餐はただの儀式ではありません。主イエスの死を思い起こし、十字架の血に与る行為です。パンを裂くとき、私たちは主イエスの体が裂かれたことを思い、杯を飲むとき、主イエスの血が流されたことを覚えます。アベルの血は地に呪いをもたらしましたが、主イエスの血は地に祝福をもたらします。旧約の血は裁きを求め、新約の血は和解を成し遂げます。クリスマス・オラトリオの「血潮したたる」は、このつながりを教えてくれます。幼子イエスの誕生は、十字架の血への道のりです。
 現代の私たちは、カインの道を歩みがちです。怒りを抱え、他人を傷つけ、争い、競い合います。認められたい、優れていたい、愛されたい。その願いが歪むと、妬みとなり、憎しみとなります。しかし主イエスの血は、私たちを変えます。赦しを受け、赦す者となるのです。私たちはカインでもあり、アベルでもあります。罪を犯す者であり、傷つけられる者でもあります。誰かの言葉で傷つき、誰かを言葉で傷つけます。しかし聖餐のたびに、私たちは問われます。「あなたはどの血に与るのか」。カインの血か、アベルの血か、それとも主イエスの血か。答えは一つです。十字架の血です。今日この日、クリスマスを待つ心は、十字架を待つ心でもあります。飼い葉桶からゴルゴタへ、血の道が続いているのです。パウロは「主の死を告げ知らせるのです」(1コリント11:26)。聖餐は宣教です。十字架の血を世界に告げる行為です。クリスマスの喜びは、この血によって完成します。
 クリスマスの日にわたしたちは聖餐式を行います。パンを裂き、杯に心を向ける時、主イエスの血によってわたしたちが赦されたことを思い返しましょう。カインの怒りを捨て、アベルの無実を思い起こし、主イエスの十字架を見上げます。流れ出た血が私たちの罪を洗うということを。罪から解放し、新たな命を与えるのです。

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