深谷教会降誕前第9主日礼拝2025年10月26日
司会:佐久間久美子姉
聖書:創世記2章4~9節、15~25節
説教:「アダムからキリストへ」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-361,412
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「アダムからキリストへ」 創世記2:4~9、15~25 佐藤嘉哉牧師
皆さん、おはようございます。今日から降誕前です。待降節に入るまでの5週間は特に主イエス・キリストの誕生の言葉、神の約束を旧約の言葉から聞く期間です。キリストの誕生を心から待ち望むアドベントへ向けて、私たちは聖書の御言葉に耳を傾け、神の救いの計画の深さを共に味わいたいと思います。今日の聖書箇所は創世記2章4~9節と15~25節です。この箇所は、人類の始まりであるアダムの創造を語り、神が最初の人と結んだ関係の美しさと目的を示しています。しかしそれだけではありません。この物語は単なる始まりの記録ではなく、キリストの到来へと続く神の大きな救いの物語の第一歩なのです。キリストの誕生は、突然起こった喜ばしい出来事ではなく、アダムの創造の瞬間から既に神の心に置かれていた計画の一部であったのです。今日はこの創世記の物語を通して、神の救いの計画がどのように展開し、キリストへとつながっていくのかを見ていきましょう。
創世記2章4節以下は、天地創造の詳細を語る中で、特に人間の創造に焦点を当てています。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(2章7節)。ここで描かれるのは、神が自らの手で、愛と目的をもって人を創造された情景です。神は人を単なる被造物としてではなく、ご自身の似姿として特別な関係の中へと招かれたのです。この場面はただの創造の記録ではありません。神が人を愛し、共に歩むことを望まれたこと、そしてその関係がやがてキリストを通して完成されることを示す、救いの物語の出発点です。神はアダムをエデンの園に置き、「これを耕させ、これを守」(2章15節)るよう命じられました。この務めは単なる労働ではなく、神の創造された世界を管理し、調和の中で生きるという神との協力の姿でした。
しかしこの美しい関係には、神の意図が込められていました。アダムに与えられた自由と責任は、神との信頼の絆に基づいていました。2章16~17節で、神はアダムに命じます。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」この言葉は、神がアダムに自由を与えつつ、従順を通した関係を求めたことを示します。アダムは神の言葉に信頼して従うことで、神との完全な交わりを保つことができたのです。しかし私たちは知っています。この物語はアダムの不従順によって破綻を迎えることになります。創世記3章で、アダムとエバは神の命令を破り、罪が入り込み、神との関係は傷つきました。この罪の結果、死と分離が人類の現実となったのです。それでも神の救いの計画はここで終わりません。むしろアダムの創造とその失敗の瞬間から、既に神はキリストを通した救いの道を用意されていました。創世記の物語は、キリストの到来を指し示す最初の約束を含んでいます。例えば、創世記3章15節は、救いの計画の最初の兆しです。「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう。」この「おまえのすえと女のすえとの間に」とは、キリストを指すと伝統的に解釈されてきました。すべての人はこのアダムとイブから生まれました。だからその子孫は恨みを持たれる。しかしその恨みを、罪を主イエスである神の御子が一身に担われたのです。そして神はアダムの罪の直後に、敵である蛇を打ち砕く救い主の到来を約束されました。この約束はアダムの創造の時から神の心にあった救いの計画の一部であり、キリストの誕生が突然の出来事ではなく、永遠の昔から定められた神の意志であることを示します。
創世記2章18~25節では、アダムにふさわしい助け手としてエバが創造される場面が描かれます。「また主なる神は言われた、『人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう』。」(2章18節)。神はアダムの孤独を見過ごさず、彼にエバを与え、互いに支え合う関係を築かれました。この場面は単に結婚の起源を示すだけでなく、神が人と人との間に愛と交わりを望まれたことを表しています。しかし、この人間同士の関係もまた、キリストの到来によって完成される神の計画を指し示します。エペソ人への手紙5章25~27節には、こうあります。「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられるように、妻を愛しなさい。」キリストは教会の頭であり、教会との関係は、アダムとエバの関係の完全な成就です。神がアダムにエバを与えたように、キリストは教会に与えられ、罪によって壊れた関係を回復するのです。
このように創世記2章のアダムの物語は、キリストの誕生へとつながる神の計画の基盤です。アダムの創造は神が人を愛し、関係を築くことを望まれたことの表れであり、同時に罪によって壊れたその関係を回復するための計画の始まりでもあります。キリストの誕生、アドベントやクリスマスは、決して突発的な出来事ではありません。それは神がアダムの創造の時から意図され、旧約の歴史を通して徐々に明らかにされた救いの物語の頂点です。イザヤ書9章6節には、こう記されています。「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。」この預言は、キリストの誕生が神の計画の成就であることを明確に示します。イザヤの時代、イスラエルの民はバビロン捕囚という苦しみの中にあり、我々を救ってくださる方、救い主を待ち望んでいましたが、その希望はアダムの時代から始まっていたのです。
アダムの物語とキリストの誕生をつなぐもう一つの鍵は、ローマの信徒への手紙5章12~14節にあります。「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだのである。というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。」パウロはここで、アダムがキリストの「型」であると述べます。アダムは人類の始まりであり、罪と死をもたらしましたが、キリストは新しい人類の頭として、義と永遠の命をもたらすのです。この対比は、創世記2章のアダムの創造が、キリストの救いの業を指し示す神の計画の一部であったことを明確にします。神はアダムを創造された時、既にキリストを通して人類を贖う道を定めておられたのです。
アドベントへと向かう降誕前節の時期、アドベントやクリスマスは単なる前夜祭やお祭りではないことを心に留めたいと思います。神がアダムの創造から始まり、旧約の預言者たちを通して明らかにし、キリストにおいて完成させた救いの物語を思い起こす時です。クリスマスは突発的な喜びの出来事ではなく、神の永遠の計画の成就です。アダムに命の息を吹き込んだ神は、キリストを通して私たちにも同じように、新しい命を吹き込んでくださいました。ガラテヤの信徒への手紙4章4~5節には、こうあります。「しかし、時が満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。」この「時が満ちる」とは、アダムの創造から始まり、預言者たちの時代を経て、キリストの誕生に至る神の計画の完成を意味します。
私たちは今この時、創世記2章のアダムの物語からキリストの誕生に至る神の計画を振り返りましょう。神はアダムを創造された時、既にキリストを通して私たちを救う道を用意されていました。罪によって壊れた関係を回復し、新しい命を与えるために、キリストは来られたのです。この救いの物語は、私たち一人一人にも及んでいます。神は私たちを愛し、キリストを通してご自身との関係に招いておられます。私たちはキリストの到来をただ待つだけでなく、その到来が神の永遠の計画の一部であることを心に刻み、感謝と喜びをもって主を迎えましょう。聖書は私たちに神の愛の深さを教えてくれます。神は人を創造し、共に歩むことを望まれました。罪によってその関係が傷ついた時も、神は見捨てず、キリストを通して新しい交わりを築いてくださいました。アドベントとクリスマスは、その愛の物語の頂点です。私たちはこの時、キリストの誕生を祝うだけでなく、神の救いの計画がアダムの時代から始まり、今も私たちの人生の中で働いていることを覚えたいと思います。神の愛と恵みに信頼し、キリストを心に迎え入れ、その救いの喜びを周囲と分かち合いましょう。