「御前に伏す」ヨハネの黙示録7:9~17

深谷教会聖霊降臨節第20主日礼拝2025年10月19日
司会:落合正久兄
聖書:ヨハネの黙示録7章9~17節
説教:「御前に伏す」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-289,98
奏楽:野田治三郎兄

    説教題:「御前に伏す」 ヨハネの黙示録7:9~17    佐藤嘉哉牧師

 ヨハネの黙示録7章9節から17節は、神の御座の前に集う壮大な光景を私たちに示します。この聖書の言葉を読むとき、私たちの心は神の栄光とその救いの約束に引き寄せられます。聖書は、私たちが神の御前にどのような姿勢で立つべきかを教えてくれます。それは、謙虚に御座の前に伏し、すべての栄光を神と子羊イエス・キリストに帰する姿勢です。今日わたしたちは神の御前での真の礼拝とは何か、そして終末の時にすべての人がどのように神の御前に立つのかを、ヨハネの幻を通して考えたいと思います。私たちは、地上の業や誇りが神の前で無意味であること、そして子羊の血による救いが唯一の道であることを心に刻みます。
 ヨハネは幻の中で驚くべき光景を見ました。「その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊の前に立」った(7章9節)。この大群衆は、地上のあらゆる区分を越えた人々です。国や文化、言語、背景の違いはここでは意味を失います。彼らは一つとなって、神と子羊と表現されている「イエス・キリスト」を賛美しています。この光景は神の救いがどれほど広大で、誰一人として排除されないかを示しています。神の御座の前ではすべての人が等しく招かれ、救いの恵みに浴する機会が与えられているのです。この普遍的な救いの訪れは、私たちの心に希望を与えるのと同時に神の御前に立つための準備を促します。
 白い衣を着た大群衆の姿は深い意味を持っています。白い衣は神の義と清めを象徴します。しかし彼らがその衣を自らの力で得たわけではありません。14節で長老はヨハネにこう告げます。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」。子羊イエス・キリストの犠牲によって彼らの罪は赦され、清められたということです。この言葉は私たちが神の御前に立つための唯一の道を示しています。自分の功績や努力ではなく、イエス・キリストの十字架による救いです。地上での名声、財産、地位は、神の御前では何の価値もありません。それらに頼る心は、神の恵みを軽んじ、自己中心の罪に陥る危険をはらんでいます。
 この真理を深く考えるとき、イエスが語られた「天に宝をたくわえなさい」という教えが心に響きます。マタイによる福音書6章19節から21節で、イエスはこう言います。「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」。地上の宝、つまり名誉や財産、自己中心の誇りは、終末の時に何の意味も持ちません。神の御座の前では子羊の血によって清められた者だけが白い衣を着て立つことができます。天に宝をたくわえるとは、神に信頼してその御心に従い、謙虚に生きることです。それは自分の欲望や栄光を追い求めるのではなく、神の栄光を第一とする生き方です。この生き方は、ヨハネの黙示録が示す神の御前に立つ姿勢と深くつながっています。
 大群衆はただ御前に立つだけでなく、心からの賛美を神と子羊にささげます。「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」(7章10節)。彼らの賛美は、すべての栄光と力を神に帰するものです。ここには自己中心の思いや誇りは一切ありません。彼らは神の偉大さを認め、御前に伏して礼拝します。この賛美は終末の時にすべての人が神の御前で示すべき姿勢を象徴しています。神の御座の前では誰も自分の業を誇ることはできません。すべての人は、子羊イエス・キリストの犠牲によってのみ立つことができるのです。この礼拝の姿は私たちが今、地上でどのように神と向き合うべきかを教えてくれます。礼拝とは単なる儀式や習慣ではなく、心からの応答であり、神の恵みに感謝し、その栄光をたたえることです。さらにヨハネの幻は、神の御前に立つ者たちの祝福された状態を描きます。「彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」(7章16-17節)。この言葉は、神の救いの完全さと永遠の約束を示しています。地上での苦しみ、欠乏、悲しみは、御前に立つ者にはもう関係ありません。炎暑もないなんて最高ですね。子羊イエス・キリストが牧者として彼らを導き、神がすべての涙を拭い去ってくださいます。この約束は、終末における神の民の勝利と平安を確かなものとします。私たちはこの希望に支えられ、どんな試練の中でも神の御手に信頼することができるのです。
 この約束は私たちに今どのように生きるべきかを問いかけます。神の御前に立つためには、地上での生活が準備の時であることを忘れてはなりません。イエスが「天に宝をたくわえなさい」と語ったように、私たちは日々の選択において神を第一とする生き方を求められます。自分の栄光や利益を追い求めることは、終末の時に何の価値も持たないと聖書は警告します。ヨハネの黙示録はすべての人が神の御座の前で裁かれ、子羊の血によって清められた者が永遠の命を受けることを明らかにしています。この真理は私たちに謙虚さと悔い改めの心を求めます。自分の力や業に頼るのではなく、神の恵みに信頼する姿勢が、今、私たちに求められているのです。
 大群衆の姿は礼拝の真の意味をさらに深く教えてくれます。彼らはしゅろの枝を持ち、喜びと勝利の中で神を賛美します。このしゅろの枝は旧約聖書の時代から勝利と歓喜の象徴でした。彼らの礼拝は、子羊イエス・キリストの勝利をたたえるものです。私たちもまた、地上での生活の中で、このような礼拝の姿勢を持つことが求められます。礼拝は教会での集まりに限定されません。日々の生活の中で、神の恵みを認め、すべての良いものを神からの賜物として感謝することです。自分の力や成功を誇るのではなく、すべての栄光を神に帰する心です。このような生き方は、終末の時に神の御前に立つ姿を今この地上で実践することにつながります。
 ヨハネの黙示録7章9節から17節は、神の御前に立つ者が受ける祝福を強調します。子羊が牧者として命の水の泉に導き、神がすべての涙を拭い取ってくださるという約束は、私たちの心に深い平安を与えます。地上での試練や悲しみは一時的であり、永遠の喜びが神の御前で待っています。この希望は、私たちがどんな状況にあっても神に信頼し、従う力を与えてくれます。神の御座の前での礼拝は、すべての苦しみを越えた最終的な勝利の場です。私たちはこの希望に支えられ、今、謙虚に神の御前に伏し、その御心に従って生きることを選び取るべきだと思います。
神の御座の前に立つ大群衆の姿は、私たちに終末の希望と今の生き方を同時に示します。子羊イエス・キリストの血によって清められた者として、私たちは神の御前に立ち、すべての栄光を神と子羊に帰します。地上の富や名誉に心を奪われることなく、天に宝をたくわえる生き方を追求しましょう。神の御前に伏すことは、謙虚に神の恵みに信頼し、その救いの約束に生きることです。この道を歩む者が終末の時に白い衣を着て、永遠の喜びの中に入ることを許されるのです。

関連記事

PAGE TOP