深谷教会聖霊降臨節第19主日礼拝(召天記念礼拝)2025年10月12日
司会:野田治三郎兄
聖書:テサロニケ人への第二の手紙3章6~13節
奉唱:「やすかれ、わが心よ」
説教:「上を向く」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-563,575
奏楽:小野千恵子姉
説教題:「上を向く」2025年10月12日 佐藤嘉哉牧師
みなさん、今日は召天者記念礼拝の時を持ち、共に主イエス・キリストの御前に集っています。この礼拝は、私たちが愛する者を天に送り、別れの悲しみを覚える中で、神の慰めと希望を求める特別な時です。死は私たちにとって重い現実です。心にぽっかりと穴が開き、涙が止まらず、胸が締め付けられるような痛みを伴います。しかし、そのような時だからこそ、主イエス・キリストは私たちに語りかけ、そっと手を差し伸べてくださいます。今日、私たちはテサロニケ人への第二の手紙3章6~13節から、主の癒しと希望の言葉を聴きたいと思います。この箇所は、ただ生きるだけでなく、主イエス・キリストにあって上を向いて歩むようにと、私たちを励ます言葉です。
使徒パウロはテサロニケの教会に手紙を書き、信仰の歩みの中で具体的な指導を与えました。この箇所でパウロは、怠惰な生活をする人々に対して、秩序ある生活を送るようにと勧めています。しかし、その言葉の根底には、主イエス・キリストに信頼し、互いに愛し合いながら歩むことの大切さが響いています。召天者記念礼拝のこの時に、私たちはこの言葉から、悲しみの中にあっても主イエス・キリストに目を向けることの意味を考えたいと思います。
まず、パウロは6節でこう言います。「主イエス・キリストの名によって命じる。怠惰に暮らし、わたしたちが伝えた言い伝えに従わないすべての者から身を引くように。」この言葉は厳しく聞こえるかもしれません。しかし、ここには神の民として共に生きるための秩序と愛の呼びかけがあります。パウロは、怠惰な生活が共同体を弱らせ、互いの絆を損なうことを知っていました。私たちが悲しみや苦しみに沈む時、心が内に閉じこもり、周囲とのつながりを失いがちです。愛する者を亡くした痛みは、私たちを孤立させ、生きる意欲を奪うことがあります。しかし、主イエス・キリストは私たちを孤立させるのではなく、共に歩む共同体へと招いておられます。神の癒しは、まず私たちが互いに支え合う中で与えられるのです。
パウロは7節で、自分の模範を示しながらこう言います。「わたし自身、みなさんの間で怠惰な生活をせず、だれからもパンをただでもらって食べたりはしなかった。」パウロはテサロニケの人々に、ただ生きるだけでなく、責任を持って働く姿を見せました。これは、私たちが悲しみの中にあっても、与えられた日々を誠実に生きることを教えています。愛する者を失った時、時間は止まったように感じられます。すべてが無意味に思え、毎日をただやり過ごすだけになってしまうことがあります。しかし、主イエス・キリストは、私たちに新しい朝を与え、一歩を踏み出す力を与えてくださいます。それは大きな一歩である必要はありません。今日、こうして礼拝に集い、祈り、賛美する小さな一歩が、主の癒しを受け取る第一歩となるのです。
8節から9節で、パウロはさらに続けます。「わたしたちは夜も昼も働き、だれにも負担をかけなかった。これは、みなさんに負担をかけるためではなく、わたしたちに倣うようにと、模範を示すためであった。」パウロの働きは、単に生活のためだけではなく、信仰の模範を示すためでした。召天者記念礼拝のこの時、私たちは天に召された信仰の先輩たちの模範を思い起こします。彼らは、どんな試練の中でも主イエス・キリストに信頼し、愛と奉仕の生涯を歩みました。彼らの人生は、私たちに上を向いて歩む姿を示しています。悲しみの中にあっても、彼らが愛した主イエス・キリストが今も私たちを支え、導いておられることを覚えたいと思います。神の癒しは、過去の模範を通して私たちに希望を与え、未来へと目を向けさせてくれます。
10節で、パウロははっきりと言います。「働きたくない者は食べてはいけない。」この言葉は、怠惰を戒めるだけでなく、与えられた務めを果たすことの尊さを教えています。死による別れを経験した時、私たちは生きることそのものに疑問を抱くことがあります。なぜこのような痛みを味わうのか、なぜ愛する者を失わなければならなかったのか、と。けれども、主イエス・キリストは私たちに生きる目的を与えてくださいます。それは、ただ生き延びることではなく、神の愛に応えて日々を歩むことです。神は私たちに、愛し、祈り、仕える務めを与えておられます。悲しみの中にあっても、その務めを果たす時、私たちは主の癒しを受け、魂に平安を見出します。
11節から12節で、パウロはこう続けます。「みなさんの中に、怠惰に暮らし、仕事もしないで、むだごとをする者がいると聞いている。そのような者たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。静かに働いて、自分で得たパンを食べなさい。」ここでパウロが言う「むだごと」とは、目的のない生活や、他人を批判したり混乱させたりする行動を指します。悲しみに沈む時、私たちの心は不安や不満で満たされ、つい無意味なことに気を取られがちです。しかし、主イエス・キリストは私たちに静かな心を与え、与えられた務めに集中するようにと招いておられます。召天者記念礼拝は、ただ過去を振り返るだけでなく、未来に向かって歩む力を与えられる時です。神の癒しは、私たちが静かに主の御前に立ち、与えられた務めを誠実に果たす時に、豊かに注がれるのです。
最後に、13節でパウロはこう締めくくります。「あなたがたは、善を行うことに疲れてはならない。」この言葉は、召天者記念礼拝に集う私たちに直接響く励ましです。愛する者を失った悲しみは、時に私たちから力を奪い、善を行う意欲を失わせます。しかし、主イエス・キリストは私たちに言われます。「疲れてはならない」と。なぜなら、神ご自身が私たちの疲れを背負い、力を与えてくださるからです。神の癒しは、私たちが善を行うことを通して、魂に新しい命を吹き込んでくれます。隣人を愛し、祈り、助け合う小さな行いが、私たちの心を上へと引き上げます。
みなさん、死による別れは、私たちの心に深い傷を残します。しかし、主イエス・キリストはその傷を癒し、希望の光で照らしてくださいます。テサロニケ人への第二の手紙3章6~13節は、私たちに上を向いて歩むようにと呼びかけます。それは、怠惰や絶望に沈むのではなく、主イエス・キリストに信頼し、与えられた務めを誠実に果たす歩みです。召天者記念礼拝のこの時、天に召された愛する者たちが今、主の御腕の中で安らいでいることを信じましょう。そして、彼らが愛した主イエス・キリストが、今も私たちを愛し、支え、癒してくださることを心に刻みましょう。
主イエス・キリストは、私たちが悲しみの中にあっても、上を向いて歩む力を与えてくださいます。今日、こうして礼拝に集い、共に祈ることは、その第一歩です。神の癒しは、私たちが互いに愛し合い、支え合う中で与えられます。どうか、この礼拝を通して、主イエス・キリストの愛と希望がみなさんの心に豊かに注がれますように。共に上を向き、主に信頼して、新しい一歩を踏み出していきましょう。