深谷教会聖霊降臨節第18主日礼拝(世界聖餐日礼拝)2025年10月5日
司会:岡嵜燿子姉
聖書:エペソ人への手紙5章1~5節
説教:「神に愛される子どもとして」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-467,371
奏楽:野田周平兄
説教題:「神に愛される子どもとして」 エペソ人への手紙5:1-5 佐藤嘉哉牧師
今日、私たちはエペソ人への手紙5章1節から5節に目を向けます。この言葉は、神の家族の一員として召された私たちに、特別な生き方を示しています。わたしたちはクリスチャンとなった時から、もうそれまでの生き方が終わり、神に祝福された新たな生を歩めます。いわばわたしたちは神に愛される子どもであるわけです。では「神に愛される子どもとして」、わたしたちは神の無条件の愛に浴しながら、どのように応答すべきでしょうか。神は私たちをただの存在としてではなく、愛の対象として選び取ってくださいました。その愛が、私たちの歩みを形作ります。毎日の喧騒の中でこの愛を思い起こす時、心に静かな確信が生まれます。神の呼びかけは遠い響きではなく、胸に直接届く声なのです。
この箇所の冒頭で、パウロは私たちを「神に愛される者たち」と呼びかけます。これは、神の心の奥底から発せられる親しみ深い呼び名です。神の愛は万物の創造主である方が、私たち一人ひとりを個人的に抱きしめるようなものです。旧約聖書で神はイスラエルを「愛する子」として語りかけましたが、新約では主イエスを通じて、その愛が全人類に広がりました。私たちは神の愛の器として選ばれ、毎日の選択の中でその実を結ぶよう促されています。この愛は義務ではなく喜びの源泉。神の愛がなければ私たちの努力は空回りしますが、神の愛に根ざせばどんな試練も乗り越えられます。神の愛は嵐の中の灯台のように、私たちを導き、恐れを払いのけます。たとえば、孤独を感じる夜に神の愛を思い浮かべると、温かな光が部屋を満たします。神は私たちを決して見捨てず、常に寄り添うお方です。
神の愛に倣うとは具体的に何を意味するでしょうか。2節でパウロは、主イエスの犠牲を指し示します。主イエスは私たちのために身を捧げ、十字架上で贖いの供え物となられました。それは人類にとって最大にして最後の生贄として神に受け入れられました。この愛は自己中心的なものではなく、他者のために与える無私の形です。主イエスの愛は言葉ではなく行動で示されました。私たちも日常の小さな場面でその模範を追い求めたいと思います。神の愛は私たちを内側から変え、与える喜びを植え付けます。主イエスの犠牲も人々への施しも、単なる過去の出来事ではなく今の私たちの現実にも染み渡ります。そして多くの人々の心をつかみ、励まし、癒し、守るのです。だからこそわたしたちもただ受けるのではなく、自らが赴き、人々にキリストの愛、神の愛を身に帯びて関わっていくべきだと思うのです。
この犠牲と愛を私たちは聖餐の席で繰り返し思い起こします。主イエスは最後の晩餐の席でパンとぶどう酒の入った杯を手に取り、「これは私の体、あなたがたのために与えられるものです。私の血を飲みなさい」と命じられました。パンは主イエスの砕かれた体を表し、私たちの罪の重荷を背負った苦しみを象徴します。杯は、主イエスが流された血を思い起こさせ、永遠の契約を結ぶ神の約束を示します。聖餐はただの儀式ではなく、神の愛を具体的に味わう瞬間です。私たちがパンを受け取り、杯を傾ける時、主イエスの贖いがわたしたちの内側に新たに注がれ、心に平和で満たらせるのです。この食卓は、神の子どもとしての身分を再確認する場であります。神の愛に招かれた私たちは、ここで罪の汚れを洗い流され、新たな一歩を踏み出す力を得ます。聖餐を通じて主イエスの犠牲が、私たちの日常に橋渡しをし、愛の実践を可能にします。この神秘的な交わりは、神の愛を五感で感じる恵みです。
しかしこの愛の歩みに、影を落とすものがあります。3節でパウロは淫らな行為や不道徳な行い、過度な欲望を戒めています。これらは神の聖なる呼びかけにそぐわないものです。淫らさや不道徳、欲望の暴走は、偶像を拝する宗教から来るものです。これらを「名を口にするのも恥」とするのは、神の子どもとしてふさわしい品位を守るためであるとも考えられます。私たちは、世の風潮に流されず、キリストの神を基準として歩むべきです。世の流れがどうだとか、周りがこうだからと流されずに強く神に立ち返るべきだと思うのです。神の愛は私たちを解放し、罪の鎖から解き放ちます。罪の誘惑が迫る時、主イエスの血潮を思い起こし、立ち上がる力を得ましょう。聖餐の杯がその血を象徴的に与えてくれるのです。毎回の聖餐で私たちはこの解放を体験し、自由の翼を得ます。聖餐というものは、ただ受ける儀式ではなく、日々の歩みの中で自分がしてしまった罪を振り返り、悔い改め、主の血と肉とを内側に受けることでまた新たな歩み、神の愛を広げていくという目的があるのです。神の愛の豊かさを外へと広げていくこと。これがわたしたち「神に愛される子どもとして」の歩みであるのです。
しかし宣教というものは大きな問題も同時に抱えています。被災地支援に行ったキリスト教の団体が被災地で宣教したことで、「寄り添いではなく布教のために来たのか」と現地の人々から批判を受けたという話を以前聞いたことがあります。聖書の御言葉を携えて寄り添い励ます姿勢を持っていても、時にそう言われてしまうことがあるのです。4節では言葉の力についても注意が促されます。粗野な冗談や無益な会話を避け、感謝の言葉を口にせよと教えます。言葉は心の鏡です。下品な表現や噂は周囲を汚し、神の栄光を曇らせます。良かれと思ってと言った言葉が、相手を傷つけてしまうことだってあります。私たちは神の子どもとして、言葉の責任を自覚しなければいけないと思うのです。わたしたちの口は神を讃えるためにあるからです。神を賛美し、感謝を述べることがわたしたちの最大にして最高の喜びです。
5節はこの歩みの帰結を明確にします。主イエスの王国を相続するのは、世にある罪に染まらない者たちです。そしてそれは自らが選んで来たのではなく、神に招かれたからなのです。自分は神の前にふさわしい者ではないと自分を下げる必要もありません。何よりも「あなたを選ぶ」と神が言ったから、わたしたちはここにいて、恵みを受けているのです。神の王国は、永遠の喜びと正義の場。そこに入るために、私たちは悔い改めと成長を求められます。神の愛は完璧を強いるのではなく、歩み続ける者を支えます。失敗しても立ち上がり、主イエスにすがるのです。神は私たちを裁くより、回復させる方です。わが子を裁く親がいるでしょうか。この約束が、私たちの力の源となります。聖餐はこの王国を地上で再現しています。パンと杯を通じて、神の王国が近づいていることを感じ取り、希望を胸に生きるのです。
神の愛に選ばれた者として、私たちはどう生きるべきでしょうか。神に愛されているからこそ、隣人を愛するのです。恵みを分かち合い、励まし合い、祈り合うのです。その姿勢はキリストを知らない人々には異質に思われるかもしれません。しかしそれでいい。わたしたちはもう世の人ではなく「神に愛された子どもとして」生きているのですから、違っていて当たり前なのです。それを恥じるのではなく、むしろ喜びを持って人々と関わっていきましょう。主を身に帯びて。