「分断の時代~何ファースト?~」ヤコブの手紙2:8~13

深谷教会聖霊降臨節第17主日礼拝2025年9月28日
司会:佐藤嘉哉牧師
聖書:ヤコブの手紙2章8~13節
説教:「分断の時代~何ファースト?~」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-412,390
奏楽:落合真理子姉

   説教題:「分断の時代~何ファースト?~」 ヤコブの手紙2:8~13  佐藤嘉哉牧師

 今日、私たちはヤコブの手紙2章8節から13節を共に味わいながら、聖書が私たちの生き方にどのように語りかけているかを考えてみます。この箇所は、現代の私たちが直面する多くの課題、特に分断と対立が深まる社会の中で、何を優先し、どう行動すべきかを明確に示しています。家庭や職場での身近な問題から、日本社会に見られる排他的な論調まで、私たちは何を大切にすべきなのでしょうか。聖書は、私たちの心と行動を導く光を与え、希望の道を示してくださいます。主イエス・キリストの教えに従い、聖霊の導きを求めながら、愛の実践について深く考えてみましょう。
 ヤコブの手紙2章8節で、聖書はこう語ります。「もしあなたがたが、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。」この「尊い律法」(別訳では「王の律法」又は「黄金律」)とは、主イエス・キリストが教えてくださった愛の律法です。自分を愛するように隣人を愛することは、クリスチャンにとって最も大切な生き方です。そうと分かっていても、日常を振り返ると、この愛の実践は何と難しい事でしょうか。家庭では、疲れた一日の終わりについ家族に対してイライラをぶつけてしまうことがあります。職場では、同僚との意見の食い違いから、つい相手を批判してしまう瞬間があるかもしれません。これらは私たちが「自分ファースト」を優先してしまった結果です。しかし聖書は私たちに、まず隣人を愛することを求めています。隣人とは、身近な家族や同僚だけでなく、時には見ず知らずの人々も含みます。主イエス・キリストは誰かを排除するのではなく、すべての人を愛するようにと教えてくださいました。この愛は私たちの心を変え、関係を癒す力を持っています。
 この愛の律法は、単なる感情や言葉にとどまりません。ヤコブは9節で、「しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになる」と警告します。家庭や職場で私たちは無意識に人を「分け隔て」してしまうことがあります。例えば家庭で、子どもや配偶者の意見を軽んじ、自分の思いを押し通そうとしてすれ違ったりけんかをしたりすることがあるでしょう。職場では特定の同僚を避けたり、異なる意見を持つ人を遠ざけたりする傾向があるでしょう。こうした行動は愛の戒めに反するだけでなく、神の目から見れば罪なのだとヤコブは指摘します。しかし聖書は単に罪を指摘するだけでなく、愛の道へと私たちを導きます。主イエス・キリストは、十字架上で私たちの罪を赦し、どんな人とも和解する道を開いてくださいました。この赦しを受け取った私たちは他人を排除するのではなく、受け入れる心を持つようにと招かれています。聖霊は私たちがこの愛を実践する力を与えてくださいます。
 日本社会を見渡すと、排他的な論調が強まっていると感じることがあります。異なる意見や背景を持つ人々に対する不寛容な空気が広がっているように思います。移民や外国人労働者への偏見、世代間の対立、経済格差による分断など、私たちの社会は多くの壁に直面しています。こうした状況の中で、クリスチャンとして何を大切にすべきでしょうか。ヤコブの手紙10節で、「律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。」と教えています。つまり愛の戒めを守ることは、部分的な努力では不十分です。すべての場面ですべての隣人に対して愛を実践することが求められます。しかしこれは私たちの力だけでは難しいことです。だからこそ私たちは聖霊の導きを求めるのです。聖霊は私たちの心を柔らかくし、愛と赦しの心を与えてくださいます。神の愛に根ざした行動は、個人だけでなく、社会全体を変える力を持っています。
 家庭や職場での具体的な課題を考えてみましょう。例えば、家庭で子どもが反抗的な態度をとるとき、つい感情的に叱ってしまうことがあります。けれどもヤコブの言葉を思い出すなら、子どもを一人の隣人として愛し、その背後にある思いや悩みに耳を傾けることが大切であるという行動へと変えられていきます。子どもの行動の背景には、ストレスや不安があるかもしれません。愛の心で接することで、関係は修復され信頼が深まります。職場では異なる意見を持つ同僚と衝突したとき、相手を否定するのではなく、対話を通じて理解しようとする姿勢が求められます。こうした小さな一歩が分断を癒し、協力の土台を築きます。しかし、愛の実践は一朝一夕にはできません。日々の祈りの中で聖霊に助けを求め、隣人を愛する力を与えていただくことが不可欠です。主イエス・キリストは私たちが弱いときにも共にいてくださり、愛の道を歩む力を与えてくださいます。
 日本社会の排他的な論調に対して、クリスチャンとしてどう向き合うべきでしょうか。ヤコブの手紙12節は、「自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。」と勧めます。私たちは自分が神の裁きを受ける者であることを忘れてはなりません。神の前では誰もが罪人であり、完全な者は一人もいません。しかし神の憐れみと主イエスの十字架での贖いによって、私たちは赦され愛されています。この赦しを心に刻むとき、私たちは他人を裁くのではなく、憐れみの心で接することができます。家庭や職場、社会の中でわたしたちは「〇〇ファースト」から外れた人々を隣人として迎え入れる姿勢が求められます。クリスチャンとして私たちは社会の分断を癒す架け橋となる使命を担っています。聖霊は、私たちがこの使命を果たすための知恵と勇気を与えてくださいます。地域社会での小さな行動、例えば近隣の人々との対話や支援活動を通じて、愛の精神を広げていくことができます。
 ヤコブの手紙13節は、こう締めくくります。「あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。」この言葉は、私たちの生き方に深い希望を与えます。神の憐れみはすべての裁きを超える力を持っています。私たちが憐れみの心で隣人に接するなら、分断された関係は癒され、新たな絆が生まれます。家庭では、互いに赦し合い、愛し合う関係を築くことができます。職場では、異なる意見を持つ人々と協力し、共に目標に向かう喜びを見いだせます。そして、社会においては、排他的な空気を愛と憐れみで変えていくことができるのです。なによりも忘れてはならないことは、神こそ「あなたファースト」なお方です。ひとりひとりをとにかく大切にする方です。そこに分け隔てなく、すべての人にそのまなざしを向けられています。だからこそわたしたちは、愛された者として、まだこの神の愛を知らない人々に主の名を帯びて出会うため、この世へと出ていくべきであるのです。この道は簡単ではありません。主イエス・キリストの十字架を仰ぎ、聖霊の導きを求めることで、私たちは憐れみの心を育て、愛の実践者となることができます。日々の生活の中で、祈りを通じて神の愛に根ざし、隣人への愛を具体的な行動で示していきましょう。
 今日、私たちが直面する分断の時代においてヤコブの手紙は「愛ファースト」の生き方を示しています。自分ファーストではなく、隣人を愛すること。裁きではなく、憐れみを優先すること。これが「何を大切にして生きていくべきか」という聖書の答えです。家庭や職場での小さな一歩から始め、社会全体の課題に対しても、愛と憐れみの心で立ち向かうことができます。信仰の友として共に祈り、聖霊の力によってこの愛の戒めを実践していきましょう。愛の実践は、個人を変え、家庭を変え、社会を変える力を持っています。神の愛に信頼し、勇気を持って一歩を踏み出しましょう。

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