深谷教会聖霊降臨節第16主日礼拝2025年9月21日
司会:佐藤嘉哉牧師
聖書:コリント人への第一の手紙1章10~17節
説教:「ゆるすことが難しい時代」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-210,524
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「ゆるすことが難しい時代」 コリント人への第一の手紙1:10-17 佐藤嘉哉牧師
コリントの教会に主イエスから遣わされたパウロは手紙を送りました。その手紙の第一章10節から17節で、彼は教会の深刻な分裂の危機を指摘し、強い警告を発しています。どの時代も人間は不寛容な心が広がりやすい中で生きています。互いの違いを認めず、相手を非難する風潮が強まる中で、聖書が私たちに示す「ゆるす」こととは何でしょうか。
パウロはまず10節でこう呼びかけます。「さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互の間に紛争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、固く結び合ってほしい。」コリントの教会は表面的な平和を保ちながらも、内側で深刻な分裂が生じていました。信じる者たちが主イエスの名を共有するはずの共同体の中で、互いに引き裂かれていたのです。この分裂の原因は、12節に明らかです。「はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケパに』『わたしはキリストに』と言い合っていることである。」人々は指導者の名前を掲げて党派を形成し、互いに優劣を競っていました。パウロの教えを好む者、アポロの雄弁を慕う者、ケパ、つまりペテロの権威を重んじる者、そしてキリストの名だけを純粋に守ろうとする者さえ、互いを排除しようとしていました。このような党派心は教会の一致を破壊する毒でした。神が一つの体として召された共同体が、人の名によって分断されるのは、神の御心に反するものです。
この分裂の危機は、単なる個人的な対立ではありませんでした。それは神の恵みによって与えられた救いの喜びを、互いの違いで曇らせるものです。13節でパウロは続けます。「キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。」キリストは一つであって分けられるものではありません。党派を形成する者たちは、無意識のうちにキリスト自身を分断しようとしていました。神の御子である主イエスは、十字架によって神と人、人と人を一つに結びつけるお方です。それなのに人間的な忠誠心が優先され、教会は分裂の淵に立たされていました。この危機の根源は、互いの違いを「ゆるす」ことができず、相手の長所さえ脅威と感じる心にありました。神の恵みがもたらす一致を、人の名で台無しにする愚かさです。コリント教会はこのような状態で、神の栄光を反映できなくなっていました。
本日の聖書箇所と全く同じ内容が3章1節から9節までに書かれています。ここでパウロは自らの役割を振り返り、分裂の原因をさらに深く掘り下げます。彼は自分たちの働きが神の道具に過ぎないことを示します。さらにコリントで最初に福音を宣べ、アポロはそれに水を注ぐように育てましたが、それはすべて神の業であると伝えています。アポロも、世界のどんな力も、主イエスの名によって働くだけです。党派心は、こうした神の秩序を無視し、人間の功績を神格化する罪でした。3章5節から6節でパウロは言います。「アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。」指導者たちは教会を自分のものにするのではなく、神の恵みを植え、水を注ぐ僕であると述べています。パウロの洗礼は、主イエスの十字架のゆえに与えられたもので、人の名を高めるものではありませんでした。この言葉は、人間の名を神の名の上に置く傲慢から分裂が生じたのだと、はっきりと暴き出しています。
このコリント教会の分裂の危機から、私たちは一致の重要性を学びます。神は私たちを、一つの体としてお召しになりました。主イエスが祈られたように、信じる者たちは一つとなることが神の栄光を表すのです。党派心はこの一致を破壊します。それは互いの違いを敵視し、相手を排除する心から生まれます。ここで私たちは「ゆるす」ことの必要性に気づきます。分裂を防ぎ一致を保つためには、互いの過ちや違いを「ゆるす」心が不可欠です。コリントの信徒たちが指導者の名で争ったように、私たちも小さな違いで心を分かつことがあります。よく聞く話ではありますが、牧師と人間関係が悪化して教会の中が分裂してしまったという教会もあります。しかし神の御心は一致です。そのために「ゆるす」ことが求められます。聖書の言葉はこの「ゆるす」を、ただの感情的な許容ではなく、神の恵みに根ざした行動として描きます。パウロの勧告は党派を捨て、主イエスの名に帰るよう促します。それは相手の弱くされた部分を認め、「ゆるす」ことから始まります。神が私たちを一つに結ぶ恵みを思い起こすとき、互いの分裂を生む心を「ゆるす」力が湧きます。一致は「ゆるす」ことなしには成り立ちません。コリント教会の危機は、私たちにこのつながりを教えてくれます。
さて、この説教のタイトルが「ゆるすことが難しい時代」とありますね。ひらがなで「ゆるす」と記されていることが気になった方がいるかもしれません。日本語では、「赦す」と「許す」という二つの言葉がありますが、意味がそれぞれ微妙に異なります。「赦す」は、主に罪の赦しを意味し、神の裁きに対する免除を指します。たとえば、十字架の主イエスによって、神が私たちの罪を赦してくださるような、絶対的な恵みの行為です。一方、「許す」は人間的な関係の中で、相手の過ちを許容し、和解する意味として用いられます。また特定の行為を行うことを認めるのも「許す」として用います。コリント教会の文脈では、党派心という罪的な分裂を、神の恵みによって「赦し」つつ、互いの違いを「許す」べきであると述べているように思うのです。タイトルにひらがなの「ゆるす」を用いたのは、この二つの意味を持ちつつも、どちらの意味にも偏らない、柔らかく親しみ深い表記が良いのではないかと思ったのが理由です。不寛容な時代に生きる私たちの心に、穏やかな呼びかけとして届く神の御言葉が表現できていたでしょうか。
しかし、「ゆるす」ことは決して簡単ではありません。その難しさはコリント教会の危機において如実に表れています。党派心は相手の名を悪く言い互いの傷を深めます。一度生じた分裂は、心の壁を高く築き、「ゆるす」ことを拒否します。パウロが勧めたように、キリストの名に帰る道は、まず自分の傲慢を認め相手の立場を尊重することです。それが難しいのは、人間が傷ついたプライドを守ろうとするからです。指導者の名で争う信徒たちは、互いの教えの違いを「ゆるす」ことができず、教会全体を危機に陥れました。私たちも同じように、相手の言葉や行動を許せず、心を閉ざすことがあります。この難しさは神の御前に立つときなおさら出てしまうでしょう。わたしはこれだけのことをしました!と。しかし神は完全なるお方であり、私たちの不完全さをすべてお見通しですから、そんなプライドは必要ないのです。神は私たちを「ゆるす」ために、主イエスを遣わされました。十字架の愛はこの難しさを越える力です。コリントの信徒たちにパウロは党派を捨てるよう命じましたが、それは神の「ゆるし」を思い起こさせるためでした。私たちもゆるすことが難しいときに、主イエスの恵みを思い浮かべるのべきだと思います。
聖書が語る「赦す」ことの重要性は、ここにあります。主イエスと神の「赦し」は、単なる免罪ではなく新しい命の始まりです。コリント教会の分裂は、罪のゆえに生じましたが、神の「赦し」によって癒されます。17節のパウロの言葉、「キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。」は、まさにこの「赦し」の核心です。主イエスの十字架は、私たちの党派心や傲慢を赦し、一つに結びます。この「赦し」なしに一致はありえません。神が私たちを赦してくださるように、私たちも互いを赦すのです。難しくても聖霊の力によって可能となります。コリントの危機は、私たちに教えます。分裂の原因を「ゆるす」心で乗り越えるとき、神の栄光が現れます。「赦す」ことは神の似姿を表す行為です。主イエスが祈られた一致はこの「赦し」によって実現します。
不寛容な時代に、私たちはコリント教会を前に立ちます。党派心が心を蝕むとき、「ゆるす」ことが難しいのです。しかし聖書の言葉は希望を与えます。パウロの勧告はキリストの名に帰る道を示します。互いの違いを「ゆるす」ことから始まるのです。神の恵みが私たちを一つにします。十字架の主イエスは分裂を赦し、和解をもたらすお方です。この手紙の言葉を胸に、私たちは今日から「ゆるす」ことを選びましょう。