「本当に復活したのか?」第一コリント15:35~52

深谷教会聖霊降臨節第15主日礼拝2025年9月14日
司会:佐藤牧師
聖書:コリント人への第一の手紙15章35~52節
説教:「本当に復活したのか?」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-529,303
奏楽:小野千恵子姉

   説教題:「本当に復活したのか?」  コリント人への第一の手紙15:35~52  佐藤嘉哉牧師

 皆さんは、死んだ人が生き返るという話に、どれほど心を動かされますか。この問いが、人類の心に深く刺さるのは、死という現実が、私たちすべてに共通する永遠の謎だからです。主イエス・キリストの復活は単なる歴史的事件ではなく、2000年にわたる人類の問いに対する神の答えとして、繰り返し議論されてきました。現代まで数え切れない人々が、この出来事に挑んできました。主イエスの復活が本当であれば、私たちの人生の意味、死後の希望、そして神との関係が根本的に変わるからです。もしそれが幻想や作り話なら、キリスト教の基盤は崩れ落ちます。この問題は単に信じるか信じないかの二択ではなく、私たちの生き方そのものを問うものです。コリント人への第一の手紙15章35節から52節では、パウロがまさにこの疑問に直面しています。コリントの信徒たちは、復活の体がどういうものかを尋ねていました。「死人のどういう体で復活するのか」と。パウロは種が土に落ちて新しい植物を生むように、死んだ体が神の力によって栄光ある体に変えられることを説明します。肉の体は朽ちるものですが、霊の体は不朽です。この箇所は復活を抽象的な概念ではなく、具体的な変容として描いています。想像してみてください。土に埋められた種が芽を出し、花を咲かせるように、私たちの体も神の手によって全く新しい形に生まれ変わるのです。パウロの言葉は復活がただの蘇生ではなく、質的な飛躍であることを強調します。朽ちるものが不朽に、死ぬものが生きるものに変わるのです。
 このような議論が2000年も続く理由は、復活の出来事があまりに衝撃的だからです。主イエスは十字架で息絶え墓に安置されました。三日後に女性たちが空の墓を発見し、弟子たちは恐れと喜びの中で主に会いました。この出来事は目撃者たちの人生を一変させました。彼らは命がけで宣べ伝え、世界中に広がりました。しかし反対者たちは、弟子たちが体を盗んだとか、幻覚だったとか、様々な理論を唱えてきました。19世紀の啓蒙主義では、理性の名の下に奇跡を否定する声が高まりました。20世紀に入ると、科学の発展がさらに疑問を投げかけました。量子物理学や進化論が台頭する中、復活は神話のように扱われるようになりました。それでも歴史学者の中には、空の墓と目撃者の証言を基に、復活の史実性を認める人もいます。この長い議論は単に過去の出来事ではなく、今日の私たちに希望を与えるか、絶望を強いるかを決めるものです。昨今のキリスト教の捉え方は多様化しています。伝統的な福音派では、復活を身体的な史実として堅持します。主イエスは肉体を持って墓から出て、弟子たちに触れ、魚を食べました。この出来事は神の力の証明であり、信仰の土台です。一方、因習や伝統に囚われない考え方(リベラル)からの神学では、復活を象徴的な体験として解釈します。弟子たちの霊的な気づきや共同体内の変革として捉え、身体的な蘇生を必須としない立場です。こうした違いは聖書の解釈や文化の影響から生まれます。例えばヨーロッパの教会では世俗化が進み、復活を倫理的な教訓として扱う傾向がありますが、アフリカやアジアの教会では奇跡的な力として生き生きと信じられています。この多様性はキリスト教が世界的な信仰であることを示しますが、同時に復活の本質を曖昧にしないよう注意が必要です。パウロが言うように復活を否定すれば、信仰は空虚になるからです。
 特にホーリネス系の教会が主イエスの復活をどう考えているかを考えてみましょう。ホーリネス運動は19世紀の米国でウェスレー派の影響を受けて生まれました。ホーリネスの教えでは救いの恵みを通じて心が罪から清められ、神の完全な聖性を求める信仰を強調します。復活はこの文脈で、決定的な意味を持ちます。主イエスの復活は神の聖なる力が死を征服した証です。ホーリネス派にとって復活は単なる過去の出来事ではなく、信じる者の人生に即座に及ぶ力です。なぜなら復活の霊が信者の内に宿り、聖化を加速するからです。たとえば十字架の贖いが罪を赦すなら、復活はそれを確認し信者を新しい命に導きます。ホーリネスの教えでは復活は身体的な現実として信じられ、終末の希望を支えますが、それ以上に日常の聖い歩みを促します。ホーリネス教会の礼拝では復活の力が熱く語られ、信者たちはその力で誘惑に勝ちます。この捉え方は復活を抽象論ではなく、実践的な変革の源泉と位置づけます。
 一方今のキリスト教全体の復活の捉え方はとても広範です。保守派の多くは身体的な復活を肯定します。これは主イエスが神の子として宣言された出来事です。復活は十字架の犠牲を神が受け入れた証明であり、信者が正しくされたことを保証します。現代の福音派神学者たちは歴史的証拠を挙げて復活の合理性を主張します。空の墓、500人以上の目撃者、弟子たちの変貌がその根拠です。これに対し進歩派の神学者たちは、復活を神の愛の顕現として、復活は身体の蘇生ではなく共同体が経験した希望の爆発であると主張します。この立場では、復活は社会的変革を促し抑圧された人々の解放を象徴します。たとえば南米の解放神学では、復活が貧困者への神の約束として語られます。こうした多角的な捉え方はキリスト教の豊かさを示しますが、核心となる復活は神の勝利を宣言について違いはありません。
 現代のキリスト教では科学との対話も進んでいます。進化論や神経科学が台頭する中、復活を比喩として扱う声が増えています。しかし多くの学者が指摘するように、初期キリスト教の文脈では、復活は身体的な出来事でした。パウロの言葉が示すように、霊の体は肉の体を超越しますが、無視できるものではありません。カトリック教会は復活を信仰の中心に据え、教皇のメッセージで毎年強調します。プロテスタントの多様な教派も、復活を共通の土台とします。この全体像から、キリスト教は復活を多層的に理解しつつ、その本質を守っています。復活はただの物語ではなく永遠の命の鍵です。
 現代社会における主イエスの復活の意義を考えてみましょう。私たちの世界は急速な変化に満ちています。パンデミック、気候変動、戦争が死の影を濃くし、人々は絶望を感じます。そんな中での復活は希望の光です。死が最終的な終わりではないことを示すからです。科学技術が進み、AIや医療が寿命を延ばす時代に、復活は人間の限界を超えた神の介入を思い出させます。精神衛生の危機が深刻化する今、復活は内面的な再生を約束します。うつ病や喪失感に苦しむ人々に、墓から蘇った主イエスは新しい始まりの象徴となりえます。この意義は個人の癒しにとどまらず、社会全体の変革を促すものとなります。復活のメッセージは現代の不平等に挑むことだってできます。グローバル化が富の格差を広げる中、主イエスが死から勝利したように、弱くされた人が強くなる可能性をも示しています。復活は抑圧された声が響く力を与え、倫理的な二者択一が迫られる時代に、復活は揺るぎない信仰の基盤となるのです。主イエスが無実の死から蘇ったように神は不正を覆します。これにより、信仰者は差別や腐敗に反対する明確な立場に立つこともできます。弟子たちが空の墓で出会ったように、私たちも互いに支え合う大切さをも教えてくださるのです。この意義は、精神的な豊かさを生み、わたしたちに癒しをも与えてくださるでしょう
 最後に、皆さんに問いかけます。本当に主イエスは復活したのでしょうか。この問いが2000年議論されてきたように、私たちも向き合うべき問いです。コリントの言葉が示すように、復活は変容の約束となります。現代の苦難で復活の意義は輝きます。それは死を越えた命、社会の正義、個人の再生です。

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