「忍び耐える」ローマ人への手紙8:18~25

深谷教会聖霊降臨節第14主日礼拝2025年9月7日
司会:佐藤嘉哉牧師
聖書:ローマ人への手紙8章18~25節
説教:「忍び耐える」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-528,520
奏楽:杉田裕恵姉

   説教題:「忍び耐える」 ローマ人への手紙8:18~25    佐藤嘉哉牧師

 私たちが生きるこの世界は、美しい瞬間と同時に、苦しみや試練に満ちています。病気、喪失、対立、誤解…これらは私たちの心と体を疲弊させ、時には希望さえも奪い去るように思えます。ローマ人への手紙8章18節から25節は、そんな苦しみの中でどう生きるべきか、神の言葉を通して私たちに力強いメッセージを与えてくれます。この箇所は、忍耐と希望について語り、クリスチャンとしてどう向き合うべきかを教えてくれます。忍び耐えること、それは一時的な発散や世の声に頼るのではなく、神の真実に基づいて生きることです。以下、この聖句を基に、辛い事と向き合う私たちの姿勢について、深く掘り下げてみましょう。
 使徒パウロは、ローマ人への手紙8章18節でこう述べています。「私は思う。今この時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」と。この言葉は、苦しみを軽視するものではありません。パウロ自身、投獄や迫害、肉体的な痛みを経験した人です。彼は苦しみの重さをよく知っていました。しかし彼は現在の苦しみが神の計画の中で必ず意味を持つと確信していました。私たちも日常の中で大小さまざまな試練に直面します。仕事のプレッシャー、家族の不和、経済的な不安などです。これらの試練は決して小さくないものです。しかし、パウロはそれらが「言うに足りない」と言うことで、苦しみそのものを否定するのではなく、未来の栄光の大きさに目を向けるよう促しています。わたしたちが良く口にする、この栄光とは何でしょうか?神が約束してくださった永遠の命、完全な救いのことです。この希望があるからこそ、私たちは耐えることができるのです。
 ではなぜ私たちは苦しむのでしょうか。19節から21節で、パウロは被造物全体が神の救いを待ち望んでいると語ります。「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。」この世界は、罪によって歪められ、完全さを失いました。この異常なほどの暑さ、病気、戦争はすべて、被造物が「虚無に服した」結果です。しかし神はこの世界を見捨てず、救いの計画を持っておられます。私たちクリスチャンは、その計画の一部として神の子として立てられ、希望の光となるよう召されていると聖書で述べられています。苦しみは一時的であり、神の救いが完成する日にはすべての被造物が自由と栄光に浴すると信じることができます。
 このような大きな視点を持つことは、辛い事と向き合う力を与えてくれます。世の中には、不寛容や無関心が溢れています。噂話や批判的な言葉は、確かに一時的な発散になるかもしれません。誰かの失敗を笑いものにしたり、SNSで他者を非難したりすることで、心の重荷を軽く感じる瞬間もあるでしょう。しかしそれは本当の解決には一切なりません。むしろ、そうした言葉は私たちの心をさらに混乱させ、希望から遠ざけます。パウロが言う「神の子たちの出現」とは、私たちが神の愛と真実に根ざして生きることです。噂や無関心、自分の意見ばかりに流されず、神の言葉に耳を傾け、聖い生き方を追求することが求められているのです。
 22節では、パウロは被造物の状態をさらに詳しく描写します。「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしは知っている。」この「うめき」という表現は、非常に生々しいものです。産みの苦しみは痛みを伴いますが、新しい命が生まれる前触れでもあります。私たちの苦しみも、ただの終わりではなく、新しい始まりへの過程であるとパウロは示唆します。たとえば、病気は耐え難いものですし、できるならば命終わる時まで病気はしたくないと思うでしょう。ご家族が病気になった時も同様です。しかし神の視点では、それらが無意味なものではありません。神は私たちの痛みをご存じで、それを新しい祝福へと変えてくださるお方です。この信頼があるからこそ、私たちは忍耐をもって試練を耐え抜くことができるのです。
 さらに、23節でパウロは私たち自身の内なるうめきについても触れます。「それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられることを、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」ここで言う「御霊の最初の実」とは、聖霊のことです。クリスチャンは聖霊によって神の子とされ、永遠の命の保証を与えられています。しかし完全な救いはまだ完成していません。私たちはこの地上で罪や弱さと闘いながら、神の国の完成を待ち望んでいます。この待ち望む姿勢こそ、忍び耐えることの本質です。忍び耐えるとはただ我慢することではなく、希望を持って神の約束を信じ続けることです。聖霊は私たちが弱いときに助けてくださり、神の愛を心に注いでくださいます。この内なる力が私たちを支え、聖い生き方へと導くのです。
 24節から25節で、パウロは希望の重要性を強調します。「わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。」そう。クリスチャンがよく多用する「望み」とは、目に見えないものを信じることです。目に見えることではなく目に見えないものを信じることこそ、クリスチャンであるわたしたちが何よりも持つべきものではないでしょうか。わたしたちは目に見える物ばかりを気にしていないでしょうか。変わっていくもの、変わらないものにばかり目が行きがちではないでしょうか。現代社会では、即座に結果を求める傾向が強いです。スマートフォン一つで情報を手に入れ、問題をすぐに解決しようとします。しかし神の救いの計画は、時間をかけて完成します。私たちの忍耐は、この希望に根ざしています。病気の回復を祈る時、すぐに癒されないかもしれません。それでも神が最善の時に最善の方法で働いてくださると信じるなら、忍耐は苦しみを超える力となります。
 この忍耐はクリスチャンとしての聖い生き方と深く結びついています。世の中の不寛容な声や無関心な態度に流されることなく、わたしたちは神の言葉に耳を傾けましょう。たとえば、誰かが私たちを誤解したり傷つけたりしたとき、報復や噂話に走るのは簡単です。しかし神の言葉は愛と赦しを選ぶよう私たちに命じます。ローマ8章のこの箇所は、私たちに大きな視野を与えてくれます。現在の苦しみや悩み、不満は一時的であり、神の栄光が必ず現れるという約束です。この約束を握りしめることで、私たちは聖い生き方を貫くことができます。
 忍び耐える生き方は、決して孤独なものではありません。噂や批判は自分が一人ではないという安心感を得るための行為です。そもそもの話、神は私たちと共におられ聖霊を通して私たちを導いてくださるのだから、それを信じていれば自然とそうした行為もしなくなるでしょう。試練の中で、私たちは神の愛と力をより深く知ることができます。祈りを通して神の知恵を求めることで、新しい解決の道が見えることだってあります。神の平安を信頼することで、冷静な判断ができるようもなるでしょう。これらはすべて、忍耐がもたらす実です。忍び耐えることは弱さのしるしではなく、希望と信仰のしるしなのです。
 最後に、この聖句が私たちに教えるのは、忍耐が神の救いの物語の一部であるということです。私たちの苦しみは被造物全体のうめきと共鳴しています。そしてそのうめきは、神の栄光が現れる日まで続きます。クリスチャンとして、私たちはこの希望を証しする者として召されています。世の噂や無関心に惑わされず、神の真実に根ざして生きるなら、私たちの人生は神の愛を反映する光となります。忍び耐えることは、簡単ではありません。しかし神の約束を信じて聖霊の導きに委ねるなら、私たちはどんな試練の中でも聖い生き方を貫くことができるのです。私たちが今日どのような苦しみに直面していても、神の言葉に耳を傾けましょう。噂や無関心な声に流されることなく、神の真実を握りしめ、聖い生き方を追求しましょう。忍び耐えることは、神の栄光を待ち望む信仰の歩みです。その歩みの中で神は私たちを力強く支え導いてくださるのです。

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