「つらくあたってはならない」コロサイ人への手紙3:18~4:1

深谷教会聖霊降臨節第13主日礼拝2025年8月31日
司会:佐藤義也牧師
聖書:コロサイ人への手紙3章18節~4章1節
説教:「つらくあたってはならない」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-162、404
奏楽:落合真理子姉

  説教題:「つらくあたってはならない」 コロサイ人への手紙3:18~4:1  佐藤嘉哉牧師

 コロサイ人への手紙3章18節から4章1節は、キリスト教の倫理に基づく人間関係の指針を示す聖書の言葉です。この箇所で使徒パウロは、家庭や社会における役割すなわち妻、夫、子、親、奴隷、主人について具体的な指示を与えています。まず、聖書に書かれている内容をしっかり見てみましょう。3章18節では、「妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである」と述べ、19節で「夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。」と続きます。20節では「子たる者よ、何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。」とされ、21節で「父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかもしれないから。」と戒めます。さらに、22節から25節では、奴隷に対し、主に仕えるように誠実に働くことを勧め、4章1節で「主人たる者よ、僕を正しく公平に扱いなさい。あなたがたにも主が天にいますことが、わかっているのだから。」と締めくくります。この教えは、当時の社会構造を反映しつつ、互いへの服従、愛、公平さを求め、つらく当たることを禁じています。これらの言葉は、神の愛と正義に基づき、関係の中で互いを尊重する姿勢を強調します。
 この聖書の言葉は、現代の人間関係、夫婦間におけるパートナーシップ、社会におけるジェンダーなどの認識と大きく異なります。当時のコロサイの社会は、男性中心の家父長制であり、支配的で、妻や子、奴隷は夫、親、主人に従うことが当然とされていました。「妻たちよ、夫に従いなさい」と口語訳にありますが、元の聖書ギリシア語では「服従する」と訳せる言葉が用いられています。より強い意味があるわけです。この「従う・服従」という言葉は、家庭内の秩序を保つための指示であり、奴隷と主人の関係も当時の社会制度を前提としています。一方現代のジェンダー認識は、個人間の平等と尊厳を重視します。男女は対等であり、「服従」という言葉は個人の自由や自己決定権を損なうものとして批判されがちです。特に女性の主体性を否定するように解釈できるこの聖書の言葉は、現代の価値観と衝突します。また奴隷制度は現代では倫理的に否定され、主人と奴隷という枠組み自体が受け入れられません。この違いは、聖書の言葉が当時の文化的・社会的文脈に深く根ざしていることを示しています。
 このギャップは、聖書の言葉を現代社会に適用する際の難しさとリスクを浮き彫りにします。字面通りに解釈し、現代にそのまま当てはめようとすると、ジェンダー平等や人権の観点から問題が生じます。例えば、「妻たる者よ、夫に従いなさい」を現代の結婚関係に押し付ければ、対等な夫婦間のパートナーシップを求める人々との間に軋轢が生じます。聖書の言葉を現代の文脈に無理やり当てはめることは、誤解や偏見を助長するリスクを伴うわけです。特定の聖句を切り取って強調することで、差別や抑圧を正当化する解釈が広がる可能性もあります。さらに聖書の文化的背景を無視すると、その本来の意図が見失われ、信仰の核心が歪められる危険があります。聖書は単なる規則集ではなく、神と人との関係を深め、愛と正義を実践するための導きです。現代に適用するには、歴史的文脈を理解しつつ、その精神を丁寧に汲み取る作業が必要になるのです。
 さらにキリスト教の牧会における「配慮」と、現代社会の「平等」の概念の違いも、この適用における難しさを深めます。キリスト教の「配慮」は、神の愛に基づく他者への思いやりと、個々の立場や状況に応じた柔軟な対応を指します。コロサイ人への手紙では、夫が妻を愛し、つらく当たらないこと、親が子を苛立たせないこと、主人が奴隷を正しく扱うことが求められます。これはそれぞれの立場の間にある関係の中で相手の尊厳を認め、愛をもって接する姿勢です。牧会的な配慮は、相手の弱くされた部分に寄り添い、神の愛を体現することを目指します。一方現代社会の「平等」は、法や制度、倫理に基づく普遍的な権利の保障を重視します。ジェンダーの平等は、性別に関わらず同一の機会や権利を保証するものであり、個人の主体性や自己決定権を尊重します。この平等の概念は、聖書の「服従」や「役割」の枠組みとは異なり、すべての人が対等であることを前提とします。
 この「配慮」と「平等」の違いは、聖書の教えを現代に適用する際の緊張を生みます。牧会的な配慮は、個々の関係の中で愛と調和を優先しますが、現代の平等は、構造的な不均衡を是正し、普遍的な正義を追求します。例えば聖書の「夫たる者よ、妻を愛しなさい」は、夫が妻に対して愛情深く振る舞うことを求めますが、現代の平等の観点からは、夫婦双方が互いに愛と尊重を示す対等な関係になることが期待されます。同様に奴隷と主人の関係における「正しく公平に扱いなさい」は、牧会的な配慮を示しますが、現代では奴隷制度そのものが否定され、すべての人が生まれながらに等しい権利を持つとされます。この違いにより、聖書の言葉を現代に適用する際、牧会的な配慮を強調しすぎると、構造的な不平等を見過ごすリスクがあります。逆に平等のみを追求すると、聖書が求める愛や個別の関係性への配慮が薄れる可能性があるわけです。
 もう八方ふさがりなように感じるかもしれませんが、それでも聖書の言葉を現代に反映させることには、大きな意義と素晴らしさがあります。コロサイ人への手紙は、当時の社会規範を前提としつつ、愛と公平さと相互の尊重という普遍的な原則を強調します。夫が妻を愛し、つらく当たらないこと、親が子を苛立たせないこと、主人が奴隷を正しく扱うことは、相手を神の似姿として尊重する姿勢から来るものです。これらの教えは、現代のジェンダー平等や人権尊重の精神とも共鳴します。聖書の言葉を現代に適用するには、字面ではなく、その背後にある神の愛と正義の精神を汲み取ることが不可欠なことです。たとえば夫婦関係における「服従」や「愛」は、互いを尊重し、支え合うパートナーシップとして再解釈できます。奴隷と主人の関係は、現代の職場での上司と部下の関係に置き換え、公平な扱いや相互の尊重として理解できます。このように、聖書の原則を現代の文脈に翻訳することで、時代を超えた神の知恵を見出すことができます。
 聖書の言葉を現代に活かす素晴らしさは、牧会的な配慮と社会的な平等を橋渡しする可能性があることです。牧会的な配慮は個々の関係における愛と調和を育みますが、現代の平等の概念を取り入れることで、より広い社会正義の実現に貢献できます。たとえば教会が夫婦関係の指導を行う際、聖書の「愛しなさい」という呼びかけをジェンダー平等の視点から、互いの尊厳を認め合う関係として具体化できます。職場においても「正しく公平に扱いなさい」という戒めは、差別やハラスメントを防ぐための指針となり得ます。このように聖書の教えは、個人の心に働きかけると同時に、社会の構造を変革する力を持ちます。聖書の言葉を現代に適用することは、単なる伝統の継承ではなく、神の愛を生き生きと今の社会状況を反映したうえで実践する挑戦となるのです。
 コロサイ人への手紙3章18節から4章1節が現代に響かせる最も普遍的な戒めは、「つらくあたってはならない」ということです。この言葉は、夫婦、親子、職場など、あらゆる人間関係において変わらぬ真理です。現代社会では、ジェンダーや立場に関わらず、すべての人が尊厳ある存在として扱われるべきです。つらく当たることは相手の心を傷つけ、関係を壊し、神の愛から離れる行為です。この戒めは牧会的な配慮と社会的な平等の両方を包含します。配慮は相手の必要に寄り添い、愛をもって接する姿勢を促し、平等はすべての人が神の前に等しい価値を持つことを認めることです。聖書のこの戒めを現代に活かすことは、単なる規則の適用ではなく、愛と正義の実践です。私たちは互いを愛し、尊重し、公平に出会うことで、神の似姿として生きることができます。この戒めを心に刻み、日々の生活の中で実践することで、神の愛をこの世界に映し出すことができるのです。

関連記事

PAGE TOP