「なぜ彼をつれて来た!」使徒行伝9:26~31

深谷教会聖霊降臨節第11主日礼拝2025年8月17日
司会:佐藤嘉哉牧師
聖書:使徒行伝9章26~31節
説教:「なぜ彼をつれて来た!」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-204,196
奏楽:野田周平兄

    説教題:「なぜ彼をつれて来た!」 使徒行伝9:26~31  佐藤嘉哉牧師

 エルサレムの街角は、いつも騒がしく賑わっていたそうです。石畳の道を行き交う人々の声、市場の呼び込み、遠くで響くローマ兵の足音。しかし、その日、弟子たちが集まる一角には、いつもと異なる緊張感が漂っていました。使徒行伝9章26節にはこう記されています。「サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。」サウロとは後のパウロのことです。この男がエルサレムに現れたことで、弟子たちの間に波紋が広がります。彼はかつてキリスト者を迫害し、ステファノの死に手を貸した人物です。なぜ今、敵対する人物がここにいるのか。なぜ弟子の仲間入りを求めるのか。誰もが心に同じ問いを抱きます。「なぜ彼をつれて来た!」サウロを連れてきたのはバルナバです。27節にはこうあります。「ところが、バルナバは彼の世話をして使徒たちのところへ連れて行き、途中で主が彼に現れて語られたことや、彼がダマスコでイエスの名で大胆に宣べ伝えた次第を、彼らに説明して聞かせた。」バルナバの心境を考えてみましょう。彼の名前には「慰めの息子」という意味があります。使徒行伝4章36節で、彼が自分の土地を売り、その代金を弟子たちの足元に置いたことが記されています。バルナバは、共同体のために自分を捧げることを厭わない人です。しかしサウロを連れてくる決断は、単なる親切心以上のものだったはずです。バルナバは、サウロがダマスコで変貌したという話を耳にします。かつての迫害者が、イエスの名を宣べ伝えているというのです。信じがたい話ですが、バルナバの心には何かを感じるものがあったのではないでしょうか。神の導きを信じる直感、あるいは聖霊の促しです。彼はサウロに会い、その目を見て言葉を聞きます。サウロが語るダマスコ途上の出来事、つまり「天からの光、キリストの声」は、バルナバの心を動かします。しかし同時に彼は、エルサレムの弟子たちはサウロを恐れ、受け入れることを拒むだろうということも知っていました。それでもバルナバは決断します。「この男を連れて行かなければならない。」彼の心には、疑いと確信が交錯していたのではないかと思います。サウロが本物なら、神の業は彼を通してさらに広がるが、もし偽りなら、弟子たちの命さえ危険に晒すかもしれない。それでもバルナバは、サウロの手を取りエルサレムへと向かいます。彼の心はこう叫んでいたかもしれません。「神よ、この決断があなたの御心なら、どうか道を開いてください。」
 一方、弟子たちの心境はどうだったでしょうか。26節の「みんなの者は彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。」という言葉は、彼らの心情を如実に表しています。エルサレムはキリスト者にとって安全な場所ではありません。迫害の嵐はまだ収まらず、ローマの監視とユダヤ教指導者たちの敵意が重くのしかかっていたからです。そんな中、サウロが現れたのです。かつて彼はキリスト者を捕らえるために家々を荒らし、牢に投じ、死に追いやりました。ステファノの殉教の場面では、彼がその殺害に賛成していたのですから、弟子たちにとってサウロは恐怖の象徴そのものでしょう。弟子たちが集まる部屋は薄暗く、窓から差し込む光だけが埃を照らしていました。誰かが囁きます。「サウロが来たって? 冗談じゃない!」別の者が言います。「バルナバが連れてきただと? なぜです! 彼は我々を裏切る気か!」彼らの心は、恐怖と不信で固まっていたことでしょう。サウロが改心したという話は、あまりにも突飛です。もしかしたら、これはユダヤ教指導者たちの罠かもしれない。サウロがスパイとして送り込まれた可能性もあります。弟子たちの目は、疑いと不安で曇っています。しかしその中にあって、使徒たちの中でも特にペトロやヤコブはバルナバの言葉に耳を傾けます。バルナバが語るサウロの変貌、ダマスコでの大胆な宣教。それは本当なのかは信じることしか道はありません。彼らの心は揺れ動きます。「もし神が彼を変えたなら、我々は拒むべきではないが、もしこれが偽りなら……。」彼らの胸には、過去の傷と神への信頼がせめぎ合っていたのではないかと思います。
 そして、パウロ自身の心境はどうだったでしょうか。サウロ、すなわちパウロはダマスコ途上でキリストに出会い、人生が一変します。9章3~6節で、彼は天からの光に打たれ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」との声を聞きます。その瞬間、彼の目は開かれ、同時に閉ざされます。彼は三日の間盲目となり、食べも飲みもしませんでした。しかし、アナニヤの手によって視力を回復し、聖霊に満たされた彼はすぐにイエスの名を宣べ伝えます。ことわざにある「目から鱗」は、このサウロの回心での出来事が由来となっているそうです。ダマスコでの彼の行動は大胆でしたが、エルサレムに着いた今、彼は新たな試練に直面します。弟子たちに受け入れられなかったのです。彼はエルサレムの門をくぐりながら、かつて自分がこの街でどれほどの害を及ぼしたかを思い返していたのではないかと思います。ステファノの叫び声、キリスト者の嘆き。それらが彼の耳にこだましているかもしれません。しかし同時に、彼の心は燃えていたのではないかと想像します。キリストの声が彼を突き動かしています。「わたしがあなたに示すことを、あなたは語らなければなりません。」パウロは弟子たちに受け入れられることを切望します。彼は一人ではありません。バルナバが彼の手を取り、使徒たちの前に立たせてくれたからです。しかし、弟子たちの冷たい視線を感じながら、パウロの心はこう叫んだかもしれません。「主よ、なぜ彼らは私を信じないのですか? しかし、あなたが私を選んだのだから、私は進みます。」彼の心には、使命への情熱と、拒絶への痛みが同居しています。
 これまでわたしの想像も含ませながら本日の聖書箇所全体のお話をさせていただきました。フィクションもたくさん含まれています。しかしこの使徒たち、バルナバ、サウロの心境を思うと想像せずにはいられません。簡単に聖書には、サウロは使徒たちの仲間に加わったとだけ書かれています。この数行の出来事は、人類の命運を左右する重要な出来事が書かれていることに気づきます。この出会いがなければ今のキリスト教は存在していないのです。この簡単な言葉の中にわたしたちの命に関わっている重要な出来事が書かれているのです。では現代の私たちにとって、この場面はどのような意味を持つでしょうか。今日、教会や社会において、私たちは「サウロ」のような人物をどのように受け入れるでしょうか。例えば、SNSやメディアを通じて、過去に過ちを犯した人々が非難される場面をよく目にします。政治家、著名人、時には教会の中の誰かが、過去の行動を理由に排除されることがあります。2025年の今、インターネット上で異なる意見を持つ人々への不信感は、ますます強まっています。誰かが過去の過ちから立ち直ろうとしても、「なぜそんな人を連れて来た!」と拒絶する声が上がります。これは弟子たちのサウロへの恐れと驚くほど似ています。私たちは、人の変貌を信じることが難しい時代に生きています。偏見や過去の傷が、新しい可能性を閉ざしてしまうのです。しかし、神の視点は異なります。使徒行伝9章31節にはこうあります。「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った。」この平和と成長は、パウロが受け入れられた結果です。バルナバの勇気、使徒たちの最終的な信頼、そしてパウロの不屈の宣教が、神の計画の中で結実します。神の意志は、過去の罪や人間の恐れを超えて、赦しと変貌を通して働きます。パウロ自身が後にこう書いています。「わたしが既にそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。」(ピリピ3:12)。彼は自分の力ではなく、キリストの力によって生かされていました。
 私たちはどの立場に立つでしょうか。バルナバのように、危険を冒してでも神の導きに従い、変わった人を信じるでしょうか。それとも、弟子たちのように過去の傷から不信を抱き、恐れから新しい可能性を拒むでしょうか。あるいは、パウロのように過去の罪を背負いながらも、神の召しに従って大胆に進むでしょうか。この問いは、私たちの信仰を試します。「なぜ彼をつれて来た!」とバルナバを責める弟子たちの声は、私たちの心にも響くかもしれません。教会に新しい人が来たとき、過去の失敗や噂を理由に拒絶してはいけません。そして自分を責める必要はありません。社会で、異なる背景や意見を持つ人を排除していないでしょうか。少子高齢化や地域共同体の希薄化が進み、教会もまた新しい人を受け入れることに躊躇することが多々あります。外国人労働者や、異なる信仰背景を持つ人々が教会の門を叩くとき、私たちはどう応えるでしょうか。「なぜ彼をつれて来た!」と心の中で叫ぶでしょうか。しかし、神の意志は赦しと和解を通して働くことです。バルナバがサウロを連れてきたのは、神の促しでした。弟子たちが最終的に彼を受け入れたのは、聖霊の働きでした。そして、パウロが大胆に宣教を続けたのはキリストの召しに応えた結果です。私たち自身に問います。今日、わたしたちの前に現れる「サウロ」は誰ですか。過去に傷つけられた記憶、信頼を裏切られた経験が、新しい出会いを拒む壁になっていないでしょうか。神はバルナバのような人を遣わし、恐れを乗り越える勇気を与えてくださいます。そして、パウロのような人を変貌させ、用います。神の意志は、赦しと和解の中で教会を建て上げ、平和と成長をもたらすことです。私たちは「なぜ彼をつれて来た!」と責めるのではなく、「神よ、あなたの御心を示してください」と祈る者でありたいと願います。バルナバのように信頼し、パウロのように大胆に、神の召しに応えましょう。

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