深谷教会聖霊降臨節第9主日礼拝(平和聖日)2025年8月3日
司会:佐藤嘉哉牧師
聖書:ローマ人への手紙9章19~28節
説教:「自分とは違っていても」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-300,563
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「自分とは違っていても」 ローマ人への手紙9:19~28 佐藤嘉哉牧師
パウロは19節で、鋭い問いを投げかけます。「そこで、あなたは言うであろう、『なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか』」。この問いは、神の絶対的な主権に対する人間の疑問を反映しています。人は自分の行動や運命が神の意志によって定められているなら、なぜ責任を問われるようなことが今もあるのかと考えるかもしれません。しかしパウロはこの問いを軽視せず、真剣に答えます。神の主権は人の理解や基準を超えたところにあることはこれまで何度も語らせていただきました。人間は自分の視点で神の行動を測ろうとしますが、神の目的は多くの場合私たちの予想とは異なる形で現れます。この箇所の核心は、神が誰を選び、どのように憐れむかを決める権利を持つことです。それは私たちが「自分(の考え)とは違っていても」と受け入れるべき神の自由な意志を表しています。
20節で、パウロはさらに踏み込みます。「ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、『なぜ、わたしをこのように造ったのか』と言うことがあろうか」。ここでは、陶器師と粘土のたとえを用いて、神と人間の関係を鮮明に描きます。陶器師は粘土から自由に器を作り、それぞれに異なる目的を与えます。一つの器が他の器と異なる形や用途を持つことは、陶器師の意図によるものです。人間が神の計画に疑問を投げかけるのは、粘土が陶器師に抗議するようなものと言えます。このたとえは謙虚さを促します。神の選びが私たちの理解と異なっていても、その背後には神の知恵と目的があることを認めなければなりません。
21節の言葉は、神の主権が全ての創造物に及ぶことを強調します。尊い器も卑しい器も同じ粘土から生まれますが、それぞれの役割は陶器師の手に委ねられています。神が誰かを憐れみ誰かを頑なにするのは、神の自由な選択です。しかしこの選択は恣意的ではありません。神の目的は、異なる器を通してその栄光を現すことにあります。自分とは異なる役割を与えられた者を見ても、妬みや不満を抱くのではなく、神の計画の中での多様性を認めることが求められます。
22節でパウロはさらに深く掘り下げます。「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば…」。ここでは、神の忍耐と憐れみが強調されます。神は滅びることになっている人に対しても急いで裁きを下さず、忍耐を示します。これは神の正義が単なる破壊ではなく、栄光を現すための手段であることを伝えています。一方で、あらかじめ用意された憐れみの器として選ばれた者は、神の豊かな栄光を体験します。神の計画は異なる者たちを一つの物語の中に織り込み、互いに引き立て合うように働くのです。
23節から24節にかけて、パウロは神の選びの広がりを明らかにします。「この憐れみの器は、ユダヤ人からだけでなく、異邦人からも召された我々である」であると。神の民は、ユダヤ人に限定されず、異邦人も含まれます。この点は当時のユダヤ人にとって衝撃的でした。彼らは自分たちが選ばれた民であると信じていましたが、神の憐れみは民族や血統の枠を超えます。自分とは異なる背景、歴史、文化を持つ者たちが、同じ神の憐れみによって一つとされるのです。これは神の計画が人間の予想を超えることを示します。私たちが「自分とは違っていても」と受け入れるべきは、神の選びがすべての境界を越えるという事実です。世の中は不寛容なものであふれています。自分とは違っていると世に流され、自分で判断して神の意志をないがしろにしてはなりません。
25節から26節で、パウロはホセアの言葉を引用し、神の憐れみの広がりをさらに強調します。「『わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子であると、呼ばれるであろう』。」。この言葉は、異邦人が神の民として受け入れられることを神の言葉を預かったホセアが伝えています。かつて神から遠く離れていた者たちが、憐れみによって神の子とされるのです。この逆転は神の選びの自由と、異なる者たち同士が神のもとで結び合わされる、神の愛を示します。私たちが自分の基準で「ふさわしい」と考える者だけが神の民となるのではありません。神は、予想外の者を招き入れ、異なる者たちを一つにします。
27節から28節で、パウロはイザヤの言葉を引用し、イスラエルの選びについて語ります。「『たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。主は、御言をきびしくまたすみやかに、地上になしとげられるであろう』。」。イスラエルの民の数が多いからといって、そのすべての人が救われるわけではありません。神は残りの者を救うために、選びの計画を進めます。この「残りの者」という概念は以前にもお話しさせていただきましたが、神の選びが数量や外見に基づかないことを示します。神の目的は、特定の者を選び、異なる者たちをその計画の中に組み込むことです。神の言葉は、確実に、速やかに成就しますが、それはしばしば私たちの期待とは異なる形で現れます。
この箇所全体を通して、パウロは神の主権と憐れみのバランスを強調します。神は自由に選び、異なる者たちを一つの目的のもとに結びつけます。ユダヤ人も異邦人も、尊い器も卑しい器も、神の計画の中で役割を持ちます。しかし、この選びは人間の基準や期待に基づくものではありません。神の正義と憐れみは、私たちの理解を超え、異なる者たちを調和させるために働きます。私たちは自分と異なる者を拒絶するのではなく、神の計画の中でその存在を受け入れることが求められます。
では、この聖書の言葉は私たちに何を教えるのでしょうか。それは、神の選びが私たちの狭い視野を超えるということです。私たちは自分の価値観や文化、背景に基づいて神の行動を判断しがちです。しかし神の目的は、異なる者たちを一つにし、その多様性を通して栄光を現すことです。ユダヤ人と異邦人、異なる役割を持つ器たちが、同じ神の憐れみによって結ばれます。この結びつきは、単なる共存ではなく、神の計画における調和です。私たちが「自分とは違っていても」と受け入れるとき、神の大きな物語に参加するのです。その代表と言える聖書の御言葉があります。ヨハネ福音書15:16です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。」神が、主イエスがわたしたちを選び、その神の大いなる計画に入ることがゆるされたのです。
さらに、この箇所は謙虚さを教えています。神に口答えするのではなく、その主権を信頼することが求められます。神の選びが私たちの理解と異なっていても、それは神の知恵と愛に基づいています。私たちは、自分の役割や他者の役割を比較して不満を抱くのではなく、神の計画に信頼を置くべきです。神は異なる者たちを用いて、予想外の方法で目的を達成します。この信頼は私たちに平安をもたらし、異なる者たちとの関係を豊かにします。
最後に、この聖書の言葉は神の忍耐と憐れみの深さを示します。神は滅びのために備えられた者に対しても忍耐を示し、憐れみの器には豊かな栄光を現します。この忍耐と憐れみは、異なる者たちを一つにする神の愛の現れです。私たちはこの愛に応答し、自分とは異なる者たちを受け入れることで、神の栄光を反映する存在となります。自分とは違っていても、神の計画の中ではすべての者が意味を持ち、目的を持つのです。