深谷教会聖霊降臨節第8主日礼拝2025年7月27日
司会:佐藤牧師
聖書:使徒行伝19章13~20
説教:「生活の刷新」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-210,405
奏楽:野田周平兄
説教題:「生活の刷新」 使徒行伝19:13~20 佐藤嘉哉牧師
使徒行伝19章13節から20節に記された出来事は、エフェソの町で起こった力強い神の業と、人々の心と生活に起こった変革の物語です。この箇所は、単なる歴史的記録ではなく、現代のクリスチャンである私たちの生活にも直接響くメッセージを持っています。パウロを通して働かれた神の力と、それに触れた人々の反応は、クリスチャンとしての歩みを振り返り、刷新するきっかけを与えてくれます。今日、私たちはこの聖書の言葉から、クリスチャン生活の核心に立ち返り、信仰を新たにする道を探りたいと思います。
この箇所では、ユダヤ人の巡回悪魔祓いたちが、イエスの名を軽々しく用いて悪霊を追い出そうとした場面から始まります。彼らはパウロが宣べ伝えるイエスの名に力があると聞きつけ、試みにその名を使ったのです。しかし、悪霊は彼らを認めず、こう言います。「イエスなら知っている。パウロも知っている。だが、お前たちは何者だ。」この言葉は、ただ名前を口にすることが信仰ではないことを突きつけます。現代のクリスチャンの中にも、習慣や形式として信仰を扱ってしまう瞬間はありませんか。礼拝に出席し、祈りの言葉を口にし、クリスチャンらしい行動を取る。しかし、心の奥底で、それが本物の信仰に根ざしているのか、問われることがあります。イエスの名は、ただの呪文や便利な道具ではありません。それは、神との生きた関係の中で初めて力を発揮するものです。この場面は、私たちに信仰の「本物さ」を問います。クリスチャンとしての生活は、表面的な行為ではなく、心からの信頼と従順に根ざしていなければなりません。
エフェソの人々にとってこの出来事は衝撃でした。悪霊に打ち負かされた悪魔祓いたちの姿は、イエスの名が軽んじられるべきでないことを示しました。この事件は、町中に知れ渡り、「みんなくすしと恐れを抱き、主イエスの名があがめられた」(19:17)。ここで注目すべきは、人々が単に驚いただけでなく、イエスの名を尊ぶ心に導かれたことです。クリスチャンにとって、礼拝や教会は時に「当たり前」のものになってしまうことがあります。毎週の集まり、讃美歌、説教等が習慣化し、聖なる神の臨在を忘れてしまう瞬間はないでしょうか。エフェソの人々のように、私たちも神の力と聖さに圧倒される経験が必要です。礼拝は単なる習慣ではなく、神の偉大さを思い起こし、心から主をあがめる場であるべきです。この聖書の場面は、クリスチャン生活の中で礼拝がどれほど神聖で力強いものであるかを再発見するよう促します。
さらに、この出来事は人々の行動に具体的な変化をもたらしました。「信者になった多くの者が来て、自分たちの行いを告白し、打ち明けた」(19:18)。彼らは、過去の罪や間違った習慣を公に認めました。これはクリスチャンとしての生活において、悔い改めがどれほど重要かを示しています。わたしたちには悔い改めを一度きりのイベントと考え、信仰生活の中で継続的に自分を見つめることを避ける傾向があるかもしれません。しかし悔い改めはクリスチャン生活の中心にあります。エフェソの人々は自分たちの過ちを隠さず、率直に神の前に出しました。この姿勢は私たちにも求められます。クリスチャンとしての生活は、完璧であることではなく、常に神の光に照らされて自分を正し、成長し続けることです。自分の弱さや失敗を認めることは恥ずかしいことではなく、神の恵みに信頼する第一歩です。
この悔い改めの流れの中でエフェソの人々はさらに大胆な行動に出ます。「また、魔術を行っていた者たちが、その書物を持ち寄って、みなの前で焼き捨てた」(19:19)とあります。彼らは過去の生活様式と決別し、具体的な行動で信仰を示しました。これらの書物は、当時のエフェソでは高価なものであり、5万銀貨という莫大な価値があったと記されています。それでも彼らはそれを惜しまず焼き捨てました。この行為はクリスチャンとしての生活が、単なる心の変化だけでなく、実際の生活の刷新を伴うことを教えてくれます。現代のクリスチャンにとってもこれは大きな挑戦です。私たちの生活には、神の意志に反する習慣や価値観が根付いていることがあります。たとえば、物質主義、承認欲求、自己中心的な時間の使い方。これらを手放すことは簡単ではありません。そうしていた方が考えたり悩んだりする必要はありませんし、楽です。しかしエフェソの人々が示したように、真の信仰は犠牲を払ってでも神に忠実であることを選び取る姿勢を求めます。生活の刷新とは、信仰を日常の具体的な選択に反映させることであります。
この一連の出来事の結果、「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなりました」(19:20)。エフェソの人々の悔い改めと生活の変化は、神の言葉が力を持つ土壌を整えました。ここにはクリスチャン生活のダイナミックな側面が見えます。信仰は個人の内面にとどまるものではなく、コミュニティや社会に影響を与える力を持っています。現代のクリスチャンの中には、信仰をプライベートなものと考え、教会や社会での責任を軽視する傾向があるかもしれません。しかしエフェソの出来事は、クリスチャンの生活が神の国を広げる力を持つことを示します。私たちの悔い改めや生活の刷新は、単に自分を変えるだけでなく周囲に神の愛と力を証しする機会となります。教会はただの集まりの場ではなく、神の言葉が力強く響き合う場であるべきです。
ここで私たちが抱えがちな誤解を考えてみましょう。クリスチャンとしての生活は、完璧な行いや規則を守ることだと考える人がいます。しかしエフェソの物語は、信仰の本質が神との生きた関係にあることを教えてくれます。イエスの名を軽々しく使った悪魔祓いたちは、神との関係を持たずに形式だけを頼りとしました。その結果彼らは失敗しました。一方、悔い改め、過去と決別した人々は神の力に触れ変革されました。クリスチャン生活は、ルールに従うことではなく、神の臨在に心を開き、日々その導きに従うことです。この点で、礼拝や教会に対する認識も見直す必要があります。礼拝は義務ではなく、神との出会いの場です。教会は単なる組織ではなく、信仰を共にする友として互いに支え合い、成長する場です。これらを新たに見つめ直すとき、私たちの信仰生活はより豊かになります。エフェソの人々の行動は、現代のクリスチャンにも具体的な挑戦を投げかけます。たとえば、時間やお金の使い方を見直すこと。忙しさの中で神を優先する時間を確保しているでしょうか。物質的な豊かさを追い求めるよりも、神の国を第一に求める生活を選んでいるでしょうか。また、コミュニティとしての教会の役割も重要です。エフェソの人々は互いに告白し合い、共に過去と決別しました。現代の教会でも互いに信頼し、弱さを分かち合える関係が必要です。クリスチャンとしての生活は孤立したものではなく、共に神を求め、支え合う中で豊かになります。こうした関係の中で私たちは神の力をより深く体験し、信仰が生活の隅々にまで及ぶのを見ることができるのです。
この箇所は神の言葉の力を強調しています。エフェソでの出来事は、すべて「主のことば」が中心でした。わたしたちにとって聖書を読むことは、単なる知識の習得や習慣、道徳の勉強や徳を積むことではありません。神の言葉は私たちの心を照らし、誤った道から引き戻し、新たな方向を示します。生活の刷新は聖書に根ざすことから始まります。毎日の生活の中で聖書を開き、神の声に耳を傾ける時間を守ることは、クリスチャンとしての歩みを力強くします。エフェソの人々のように私たちも神の言葉に導かれ、信仰を具体的な行動に変えるとき、個人としても、教会としても、神の力が働くのを見るでしょう。使徒行伝19章13節から20節は、クリスチャンとしての生活を刷新するための力強いメッセージです。主イエスの名を軽んじることなく、心からの信仰に立ち返ること。礼拝や教会を神聖な場として尊び、悔い改めを継続的に実践すること。過去の習慣と決別し、具体的な行動で信仰を示すこと。そして、神の言葉を生活の中心に据えること。これらが私たちのクリスチャン生活を豊かにし、神の力を周囲に証しする道となります。今日この聖書の言葉を受け止め、信仰を新たにし、生活を刷新する一歩を踏み出しましょう。神は私たち一人一人の歩みを用いて、驚くほどご自身の言葉を広め力強く働いてくださいます。