深谷教会聖霊降臨節第7主日礼拝2025年7月20日
司会:佐藤牧師
聖書:テモテへの第一の手紙2章1~8節
説教:「すべての人々のために祈る」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-442,440
奏楽:野田治三郎兄
説教題:「すべての人々のために祈る」 テモテへの第一の手紙2章:1~8節 佐藤嘉哉牧師
テモテへの第一の手紙2章1節から8節は、教会における祈りの本質とその使命を明確に示しています。パウロは若い指導者テモテに、すべての人のために祈ることを強く勧め、祈りが神の救いの計画と深く結びついていることを教えています。この言葉は、現代の私たちにも変わらぬ神の意志を伝え、信仰生活の中心に祈りを据えるよう促します。今日、私たちはこの聖書の言葉に耳を傾け、祈りの普遍性と、現代社会におけるその意義について深く考えたいと思います。すべての人のために祈ることは、キリストの愛を反映し、現代の分断や課題に立ち向かう教会の使命を体現する行為です。
パウロはまず、「すべての人のために願い、祈り、執り成し、感謝をささげる」ことを勧めています。「すべての人」という言葉は、特定のグループや個人に限定されない、包括的な祈りの姿勢を求めています。現代社会では、民族、宗教、政治的立場、文化的背景による分断が深まっています。ソーシャルメディアやニュースは、対立や偏見を増幅し、特定のグループだけを気にかける傾向を助長します。しかし、パウロの言葉は、私たちにすべての人のために祈る責任を思い出させます。隣人だけでなく、遠くにいる人々、異なる価値観を持つ人々、さらには敵対する人々のためにも祈ることは、神の心を反映する行為です。神はすべての人が救われることを望んでおられるからです。
続けて、パウロは「王たちや高い地位にある人たちのため」に祈るよう指示します。当時のローマ帝国では、キリスト教徒は迫害され、権力者はしばしば敵対的でした。しかし、パウロは彼らのためにも祈ることを求めます。これは、祈りが単に自分たちの安全や繁栄のためではなく、神の統治と平和な生活を可能にするためであることを示しています。現代においても、指導者や権力者のための祈りは重要です。政治的分極化やリーダーへの不信感が高まる中、彼らが正しく導かれ、公正な判断を下せるよう祈ることは、教会の務めです。たとえば、気候変動や貧困、紛争といったグローバルな問題に取り組む指導者たちが、神の知恵によって導かれるよう祈ることは、現代社会における教会の責任の一端です。この祈りは、単なる政治的安定を求めるものではなく、神の御心が地上で実現されることを願うものです。
パウロは祈りの目的を明確にします。「このことは、私たちの救い主である神の御前で良いことであり、喜ばれることです」。神は「すべての人が救われて、真理の知識に至ることを望んでおられる」と述べられています。この言葉は、祈りが神の救いの計画と直結していることを強調します。現代の私たちは、情報過多の中で真理を見失いがちです。フェイクニュースや偏った情報が氾濫し、人々は真実を見分けることが難しくなっています。教会の祈りは、すべての人が神の真理に導かれるよう求めるものです。これは、単に霊的な救いを求めるだけでなく、現代社会において正義、愛、平和が実現されることを願う祈りでもあります。すべての人のための祈りは、神の救いの計画に参与する聖なる務めです。
パウロはさらに、キリストの唯一性とその救いの働きを強調します。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人となったキリスト・イエスです」。キリストは「すべての人のための贖いとして、ご自身を献げられた」とあります。この真理は、祈りがキリストの十字架に基づいていることを思い出させます。現代社会では、多様性を尊重する一方で、すべての人が等しく神の愛のもとに招かれているという福音の普遍性が軽視されることがあります。しかし、キリストの贖いは、特定の民族や文化に限定されません。教会は、すべての人のために祈ることで、この普遍的な救いのメッセージを証しします。たとえば、移民や難民、疎外された人々のために祈ることは、キリストの愛がすべての人の上に及ぶことを具体的に示す行為です。
パウロはこの救いの真理が「すべての人の上に証しされるため」に、「異邦人のための使徒」として立てられたと述べます。彼の使命は、特定の民族に限定されず、すべての民に福音を宣べ伝えることでした。現代の教会もまた、この使徒的使命を継承しています。グローバル化が進む世界では、異なる文化や背景を持つ人々と出会う機会が増えています。教会は、すべての人のために祈ることで、福音の普遍性を宣言し、神の救いの計画に参加します。たとえば、オンラインでの交流や国際的な支援活動を通じて、遠くの人々のために祈ることは、現代における福音宣教の一つの形です。この祈りは、教会が単なる集まりではなく、神の使命を担う共同体であることを示しています。最後に、パウロは祈りの姿勢について具体的な指示を与えます。「男たちが、怒りや論争なしに、聖い手を上げて、いたるところで祈ることを望みます」。「聖い手」とは、心の清さと正しい動機を象徴します。現代社会では、SNSや対立的な議論の中で、怒りや不和が広がりがちです。しかし、祈りは純粋で平和な心から発するものでなければなりません。教会が分断や憎しみを乗り越え、すべての人のために祈る時、それは社会における和解と一致のしるしとなります。「いたるところで」という言葉は、祈りが特定の場所や状況に限定されないことを示します。現代では、職場、学校、家庭、さらにはデジタル空間での祈りが求められています。たとえば、忙しい日常の中で短い祈りをささげることや、オンラインでの祈りの集まりに参加することは、現代的な祈りの実践です。この箇所を振り返ると、祈りは単なる宗教的行為ではなく、神の救いの計画に参与する聖なる務めです。すべての人のために祈ることは、キリストの愛を反映し、現代の分断を癒す行為です。しかし、私たちはしばしば自分の必要や身近な人々に焦点を当て、広い視野での祈りをおろそかにしがちです。パウロの言葉は、その姿勢を正し、すべての人のために祈る責任を思い出させます。異なる背景を持つ人々、敵対する者、疎外された人々のためにも祈ることは、キリストの十字架の愛を具体化するものです。
現代社会において、すべての人のために祈ることは、教会に特別な役割を果たすよう求めます。気候変動、貧困、差別、戦争といった課題に直面する世界で、教会は神の愛と正義を求める祈りの先頭に立つべきです。たとえば、環境問題に取り組む人々や、平和構築に尽力する指導者のために祈ることは、現代の教会が神の使命に参与する具体的な方法です。また、デジタル時代において、オンラインでの対立や憎悪を和らげるために祈ることも、教会の祈りの一つの形です。
祈りの姿勢において「怒りや論争」を避けることは、現代の私たちにとって特に重要です。SNSやメディアでの対立は、しばしば心の平和を奪います。しかし、祈りは神の御前に立つ純粋な行為であり、心の清さを求めるものです。すべての人のために祈ることは、教会が分断された社会において一致と和解のしるしとなることを可能にします。それは、キリストの愛をこの世界に証しする務めです。
この祈りの呼びかけは、教会全体だけでなく、一人一人の信仰者に個人的な責任を課しています。すべての人のために祈ることは、信仰が自己中心的なものではなく、神の大きな計画に参与するものであることを示します。現代の忙しい生活の中で、祈りの時間を確保することは容易ではありません。しかし、短い祈りや日常の中での黙想を通じて、すべての人のために祈る習慣を育むことは可能です。たとえば、通勤中や家事の合間に、遠くの国々の人々や社会的な課題に直面する人々のために祈ることは、現代的な信仰の実践です。
今日、私たちはパウロの言葉を心に刻み、すべての人のために祈る生活を始めるよう招かれています。神の救いの御心がすべての人の上に実現されるよう、聖い手をもって祈りをささげましょう。それは、教会が現代社会において神の使命に忠実に生きるための第一歩であり、キリストの愛を証しする務めです。すべての人のために祈ることは、現代の課題に立ち向かい、神の国をこの世界に近づける教会の使命です。