深谷教会聖霊降臨節第5主日礼拝2025年7月6日
司会:佐藤牧師
聖書:コリント人への第二の手紙8章1~15節
説教:「貧しさによって富む」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-506,505
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「貧しさによって富む」 コリントⅡ8:1~15 佐藤嘉哉牧師
今日、私たちはコリント人への第二の手紙8章1節から15節の御言葉に耳を傾け、神の恵みとその豊かさについて共に黙想したいと思います。この箇所で、使徒のひとりパウロはマケドニヤの教会の模範を示し、コリントの教会に愛の業を勧める言葉を語っています。パウロがここで語るのは、単なる物質的な施しのことではありません。それは、私たちの心の姿勢、信仰の深さ、そして神の恵みに応答する生き方についてです。貧しさの中にあっても、キリストにあって豊かになる道を示してくださる神の御心を、共に味わいましょう。
「兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう」(8:1)。パウロはこの手紙を、コリントの教会に、マケドニヤの信徒たちの姿を伝えたいという熱意をもって書き始めます。マケドニヤの教会は、物質的な豊かさには恵まれていませんでした。彼らは「彼らは、患難のために激しい試練を受けたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て憎しみなく施す富となったのである。」(8:2)とあります。ここに、驚くべき神の恵みの業が現れています。マケドニヤの人々は、貧しさと試練の中にあったにもかかわらず、喜びにあふれ、惜しみなく与える心を持っていたのです。この「貧しさ」と「喜び」という一見相反する二つの言葉が結びつくとき、そこに神の恵みの奇跡が輝きます。パウロは他の書簡でもこうした相反する二つの言葉が密接に関係している表現を多用します。その代表例が「弱くても強い」ではないかと思います。貧しさと喜び、貧しさと満ち溢れる。この相反する二つの言葉が今日の中心となります。貧しさとは、単に金銭や所有物の欠乏を意味するのではありません。それは、自分の力や資源では足りないという現実を認め、神に依り頼む心の状態でもあります。マケドニヤの教会はまさにそのような貧しさの中で、神の恵みに支えられ、喜びと寛容さをもって与える者となったのです。パウロは続けます。「わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。すなわち、自ら進んで、聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出」(8:3-4)たとあります。マケドニヤの教会は、誰かに強制されたから与えたのではありません。彼らは自ら進んで、喜んで、聖徒たちの必要に応えるために奉仕を求めたのです。これは、単なる物質的な施しの話ではなく、心の姿勢の問題です。
彼らの貧しさは彼らを小さくするものではなく、むしろ神の恵みを輝かせる器となるきっかけとなりました。なぜなら、彼らは「自分自身をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。」(8:5)とあるからです。自分を主にささげることがすべての奉仕の土台です。金銭や物を与える前に、まず心を神に捧げること。それが貧しさの中にあっても豊かになる秘訣です。マケドニヤの教会は物質的な欠乏を嘆くのではなく、神に信頼し、愛の業に参与することで霊的な豊かさを経験したのです。この点でパウロはコリントの教会に勧めます。「そこで、この募金をテトスがあなたがたの所で、すでに始めた以上、またそれを完成するようにと、わたしたちは彼に勧めたのである」(8:6)。コリントの教会は、信仰、言葉、知識、熱心さ、そして愛において豊かであったとパウロは認めています(8:7)。しかし、彼らにはまだ足りないものがありました。それは、マケドニヤの教会が示したような、貧しさの中にあっても喜んで与える心の豊かさです。パウロは彼らに物質的な施しを強制しているのではありません。「こう言っても、わたしは命令するのではない。ただ、他の人たちの熱情によって、あなたがたの愛の純真さをためそうとするのである。」(8:8)とあるとおり、ここでパウロが試しているのは、単なる行動ではなく彼此の愛の真実であるのです。コリントの教会はすでにエルサレムの教会のための募金を始めていました。しかし、パウロはそれを完成させるために、彼らの心の姿勢を問うています。愛の真実とは自己中心的な動機や見せかけのためではなく、神の恵みに応答し、隣人を愛する心から出るものです。この愛の模範として、パウロは主イエス・キリストを指し示します。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられるのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである」(8:9)。この御言葉が今日の説教の中心聖句です。主イエスは天の栄光という計り知れない富を持っておられたのに、私たちのために貧しくなられました。ピリピ人への手紙2章7節では、「かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」とあります。キリストの貧しさとは、十字架の道であり、自己を捨て、神の御心に従う完全な服従でした。この貧しさによって、私たちは罪の赦し、永遠の命、そして神の子とされるという計り知れない富を賜ったのです。
キリストの貧しさは物質的な欠乏ではなく、愛と犠牲の極みでした。私たちが貧しさによって富むとは、このキリストの模範に倣うことです。自分の富、例えば時間、才能、関心、力、金等ですが、これらを保持するのではなく、隣人のためにそれを用いること。それが、神の恵みに応答する生き方です。パウロはさらに、具体的な指針を示します。「そこで、わたしは、この恵みのわざについて意見を述べよう。それがあなたがたの益になるからである。あなたがたはこの事を、昨年以来、他に先んじて実行したばかりではなく、それを願っていた。だから今、それをやりとげなさい。あなたがたが心から願っているように、持っているところに応じて、それをやりとげなさい」(8:10-11)。ここでパウロは、施しは「持っているところに応じて」行うべきだと語ります。神は私たちに持っていないものを求めるのではありません。むしろ今あるもので、喜んで与えることを求めておられるのです。「もし心から願ってそうするなら、持たないところによらず、持っているところによって、神に受けいれられるのである。」(8:12)とある通りです。神は、私たちの心の動機を見ておられます。貧しさの中にあっても喜んで与える心は、神の目に尊いのです。マケドニヤの教会は、まさにこの心を示しました。彼らは「力以上に施しをした」とありますが、それは物質的な基準を超えた信仰と愛によるものでした。
パウロはさらに、14節において施しの目的を明確にします。ここにある「等しくなる」とは、単なる物質的な平等を意味するのではありません。教会は一つの体であり、互いに仕え合い補い合うことで、キリストの愛が現れるのです。出エジプト記16章のマナの物語を引用もあるとおりです。神はイスラエルの民に、必要以上のマナを蓄えることを禁じ、日々の糧を信頼するように導かれました。これは私たちにも当てはまります。貧しさとは自分の力では足りないことを認め、神に信頼することです。その信頼から生まれる施しは、キリストの体である教会を建て上げ、神の恵みを証しするものとなっていくのです。
貧しさによって富むとはどのような生き方でしょうか。それは、マケドニヤの教会のように、試練の中にあっても喜びにあふれ、まず自分を主にささげることです。それはキリストの貧しさに倣い、自己を捨て、隣人を愛することでもあります。金銭や物資の欠乏は、私たちを貧しくするものではありません。むしろそれを神に信頼する機会とし、愛の業に参与することで、私たちは霊的に豊かになるのです。コリントの教会が施しの完成を目指したように、私たちもまた神の恵みに応答し、喜んで与える者となりましょう。キリストの貧しさによって、私たちはすでに豊かにされているのですから。この御言葉を心に刻み日々の歩みの中で、貧しさの中にあっても神の恵みに信頼し愛の業に励んでいきましょう。