「異国の宣教ーそれは今の私への言葉ー」使徒行伝17:22~34

深谷教会聖霊降臨節第3主日礼拝2025年6月22日
司会:佐藤牧師
聖書:使徒行伝17章22~34節
説教:「異国の宣教ーそれは私への言葉ー」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-533,532
奏楽:杉田裕恵姉

   説教題:「異国の宣教-それは今の私への言葉-」使徒行伝17:22~34   佐藤嘉哉牧師

 神の福音を宣べ伝えること。これは、キリスト者として生きる私たちに与えられた最も尊い使命です。使徒行伝17章22節から34節において、使徒パウロはアテネの都で、異邦人たちに主イエス・キリストの福音を大胆に語ります。この場面は、異国の地で神の真理を伝えるパウロの姿を通して、私たちに福音宣教の意味とその呼びかけを深く考えさせます。アテネの人々は、知恵を誇り、多くの神々を礼拝していましたが、パウロは彼らの宗教心に寄り添いながら、唯一の真の神を紹介しました。この宣教の出来事は、遠い昔の物語にとどまらず、今日の私たちに直接語りかける神の言葉です。どのようにして私たちは、異なる信仰や文化を持つ人々に福音を伝えることができるのでしょうか。そして、その使命に応えるために、私たちは何を学ぶべきでしょうか。聖書の言葉に導かれながら、共に考えてまいりましょう。
 パウロがアテネに立ったとき、彼は多くの偶像を見て心を痛めました。アテネは知恵と哲学の中心地であり、人々は新しい教えを聞くことを楽しみとしていましたが、彼らの心は真の神から遠く離れていました。しかし、パウロは彼らを非難するのではなく、まず彼らの宗教心に注目しました。アレオパゴスで語る際、彼は「知られざる神に」と刻まれた祭壇を起点に、創造主である神を紹介します。この姿勢は、私たちに大切な教訓を与えます。福音を伝えるとき、私たちは相手の立場や心を理解し、敬意を持って語る必要があるのです。パウロは、アテネの人々が神を求めていることを認めつつ、彼らがまだ知らない真の神へと導きました。このように、福音宣教は、相手を裁くことから始まるのではなく、神の愛と真理を分かち合うことから始まります。
 パウロの宣教の中心は、天地を造られた唯一の神と、その神が遣わされた主イエス・キリストでした。彼は、神がすべての民を一人の人から造り、すべてのものを支配し、命と息を与える方であることを語りました。この神は、偶像や人の手で作られたものではなく、生きておられる方です。パウロは、アテネの人々が自分の知恵や宗教に頼っていることを指摘しつつ、神が彼らに悔い改めを求めておられることを伝えました。しかし、アテネの人々にとって、このメッセージは容易に受け入れられるものではありませんでした。なぜなら、彼らの文化と哲学は、復活や神の裁きという概念に馴染みがなかったからです。それでも、パウロは恐れずに真理を語り、主イエスの復活を宣べ伝えました。この大胆さは、私たちに福音宣教の核心を教えてくれます。それは、どんな状況でも、主イエス・キリストの十字架と復活を証しすることです。
 福音を伝えることは、決して簡単なことではありません。アテネの人々の中には、パウロの言葉を嘲笑する者もいました。復活の教えは、彼らの知恵に愚かしく映ったのです。パウロ自身、別の手紙で「十字架の言は、滅び行く者には愚かである」と述べています(1コリント1:18)。しかし、福音の力は、人間の理解や受け入れやすさに依存しません。神の言葉は、聞く者の心に働き、聖霊によって命を生み出します。アテネでは、嘲笑する者もいた一方で、ディオニシオやダマリスをはじめとする数人が信仰に入りました。この結果は、福音宣教の成果が人間の努力や雄弁さにあるのではなく、神の恵みと聖霊の働きにあることを示しています。私たちが福音を伝えるとき、結果を神に委ね、忠実に語ることに専念するよう招かれています。
 パウロの宣教から、私たちはもう一つの重要な真理を学びます。それは、神がすべての民をご自身の民として召しておられるということです。アテネの人々は、ユダヤ人とは異なる文化と信仰を持っていましたが、パウロは彼らにも神の救いが及ぶことを確信していました。神は、すべての人が神を求め、見出すようにと願っておられます。この普遍的な神の愛は、福音宣教の原動力です。私たちは、身近な人々だけでなく、異なる背景を持つ人々にも福音を伝える使命を与えられています。しかし、この使命に立ち向かうとき、私たちはしばしば恐れや躊躇を感じます。相手が受け入れてくれるか、誤解されないか、という不安が心をよぎります。それでも、パウロがアテネで示したように、福音を語ることは神の命令であり、聖霊が私たちを力づけてくださいます。
 アテネでのパウロの宣教は、私たちに福音を伝えるための知恵も示しています。彼は、アテネの文化や哲学に通じ、彼らの詩人たちの言葉を引用しながら神の真理を伝えました。これは、私たちが福音を伝える際に、相手の文化や考え方を理解し、適切な言葉で語る大切さを教えてくれます。しかし、パウロは決して真理を妥協しませんでした。彼は、アテネの人々が受け入れやすい部分だけを語るのではなく、悔い改めと復活の真理を明確に伝えました。このバランスは、今日の私たちにも求められるものです。福音を伝えるとき、私たちは相手に寄り添いつつ、キリストの十字架と復活の核心を曖昧にしてはなりません。主イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と語られたように、福音の真理はすべての文化を超えて輝くのです。
 さらに、パウロの宣教は、福音が単なる知識や議論ではなく、人生を変える力であることを示しています。アテネの人々は、新しい教えを聞くことを楽しみとしていましたが、パウロは彼らに悔い改めと神への信仰を求めました。福音は、頭で理解するだけでなく、心で受け入れ、人生を神に捧げることを要求します。この呼びかけは、今日の私たちにも向けられています。私たちは、福音を聞いて信仰に入った者として、単に知識を蓄えるだけでなく、日々の生活で主イエスに従う者として生きるよう招かれています。しかし、私たちの心は、時にこの世界の価値観や誘惑に引き寄せられ、福音の呼びかけに応えきれないことがあります。それでも、主イエスの十字架の愛を思い起こすとき、私たちは新たに悔い改め、福音に生きる力を与えられます。
 アテネでのパウロの宣教は、福音宣教の使命が一過性のものではなく、継続的なものであることも教えてくれます。パウロは、嘲笑されたからといって宣教をやめることはありませんでした。彼はアテネを去った後、コリントへと進み、そこでさらに福音を宣べ伝えました。この持続性は、私たちに模範を示します。福音を伝えることは、すぐに目に見える成果を求めるものではありません。時には、種を蒔くだけで、収穫は神の時に委ねられます。しかし、神の言葉は決してむなしく帰らないと約束されています(イザヤ55:11)。私たちが忠実に福音を語るなら、神はその言葉を用いて、ご自身の救いのご計画を成し遂げてくださいます。
 アテネでのパウロの宣教は、遠い昔の出来事ではなく、今日の私たちに語りかける神の言葉です。福音を伝える使命は、主イエス・キリストによって、私たち一人一人に与えられた呼びかけです。私たちは、異なる文化や信仰を持つ人々に、恐れず、しかし愛と知恵をもって、キリストの福音を宣べるよう招かれています。パウロがアテレオパゴスで語ったように、創造主である神と、復活された主イエス・キリストを、この世界に証ししましょう。聖霊が、私たちの言葉と行いを通して、神の栄光を現し、多くの人を救いへと導いてくださいますますように。どうか、私たちが日々、主イエスに従い、異国の宣教の精神をもって福音を伝える者として歩めますように。アメーン。

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