深谷教会復活節第7主日礼拝2025年6月1日
司会:佐藤牧師
聖書:ルカによる福音書24章44~53節
説教:「絶えず宮にいて」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-566,564
奏楽:野田治三郎兄
説教題:「絶えず宮にいて」 ルカによる福音書24章44~53節 佐藤嘉哉牧師
ルカによる福音書24章44節から53節は、復活されたイエスが弟子たちに最後の教えを授け、天に昇られる場面を描いています。この箇所は、キリストの復活、昇天、そして聖霊降臨という一連の出来事が、弟子たちの信仰と使命をどのように形成したかを示しています。今の私たちにとっても、この場面は神の救いの計画と、私たちが日常の中でどのように神とのつながりを保ち、信仰を生きるかを考える機会を与えます。「絶えず宮にいて」という表現は、弟子たちが復活と昇天の喜び、そして聖霊の約束に根ざして、礼拝と賛美の生活を続けたことを象徴しています。忙しさや不安に満ちた社会において、この箇所は私たちに神の臨在に立ち返り、希望と力をもって生きる道を示します。
イエスは弟子たちに、「わたしがあなたがたと一緒にいた時に話した言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とにわたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就されねばならない」と言われます。この言葉は、イエスが旧約聖書に約束された救い主であり、その人生と死、復活が神の計画の一部であることを強調します。さらに、イエスは弟子たちの「心を開いて」聖書の意味を理解させました。私たちにとって、この場面は信仰の基盤を再確認する機会です。情報過多の社会では、聖書の言葉が日常の喧騒に埋もれてしまうことがあります。しかし、イエスは弟子たちに、聖書が生き生きとした神の言葉であり、彼らの人生に直接関わるものであることを示しました。私たちもまた、聖書を読む時間を確保し、そのメッセージが自分の状況にどう響くかを考える必要があります。イエスが弟子たちの心を開いたように、聖霊は今も私たちに神の真理を理解する力を与えます。この心の開きは、単なる知識の習得ではなく、神の愛と計画への信頼を深めるプロセスです。
イエスはさらに、「キリストは苦しみを受け、死人の中から復活し、その名によって、罪のゆるしを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民に宣べ伝えられる」と語ります。ここでは、復活が単なる奇跡ではなく、全人類への救いのメッセージの基盤であることが明らかです。弟子たちはこの福音を「すべての民」に伝える証人として召されました。この使命は私たちにも引き継がれています。証人であることは、キリストの復活を自分の言葉と行動で示すことです。しかし今では、信仰を公に表現することに抵抗を感じることがあります。ソーシャルメディアや世論の圧力の中で、キリストのメッセージを伝えることは勇気を必要とします。それでも、イエスは弟子たちに、恐れずに福音を宣べ伝えるよう命じました。私たちもまた、職場、家庭、コミュニティの中で、愛と誠実さをもってキリストの復活を証しすることができます。それは大規模な宣教活動である必要はなく、日常の小さな親切や正直な生き方を通じて、神の愛を反映することでも果たされます。
イエスは弟子たちに、「わたしはわたしの父の約束したものをあなたがたに送る。あなたがたは、高いところからの力に着せられるまでは、都にとどまっていなさい」と告げます。この「父の約束したもの」とは、聖霊のことです。弟子たちはこの力を受けるまで、エルサレムで待つよう指示されます。この待つ姿勢は、現代の私たちに重要な教訓を与えます。
社会は即時性を重視します。テクノロジーの進化により、情報や結果を瞬時に求めることが当たり前になっています。しかし、イエスは弟子たちに「待つ」ことを教えました。待つことは、神のタイミングを信頼し、自分の焦りや不安を神に委ねることです。弟子たちはこの待ちの間に、祈り、互いに励まし合い、復活の出来事を心に刻んだことでしょう。私たちも、人生の不確実な時期や試練の中で、神の約束を信じて待つことが求められます。聖霊降臨は、待つ者に力と導きを与え、使命を果たす準備を整える神の約束の成就です。ペンテコステの出来事(使徒行伝2章)で、弟子たちは聖霊を受けて大胆に福音を宣べ伝えました。この聖霊は今も私たちに働き、信仰の道を歩む力を与えます。
イエスは弟子たちをベタニヤまで連れ出し、手を上げて祝福し、祝福している間に天に上げられました。この昇天の場面は、イエスの地上での使命が完結し、神の右に座する栄光へと移行する瞬間です。昇天は、キリストがもはや肉体を持って弟子たちと共におらず、聖霊を通じて全世界の信者と共におられることを示します。弟子たちはこの出来事に驚きつつも、「大いなる喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえた」と記されています。この喜びは、彼らの信仰が変容した証です。かつてイエスの死に絶望し、復活を疑った弟子たちが、今や希望と賛美に満ちています。
昇天は、私たちにキリストの永遠の臨在を確信させます。イエスが天に昇られたことは、彼が遠く離れた存在になったのではなく、聖霊を通じて常に私たちと共におられることを意味します。仕事のストレス、経済的な不安、対人関係の課題など、多くの重荷に直面します。しかし、昇天したキリストは、私たちを見捨てず、聖霊を通じて導き、力を与えます。この確信が、私たちを「大いなる喜び」に導き、どんな状況でも神を賛美する心を養います。
弟子たちの「絶えず宮にいて」という姿勢は、復活と昇天の出来事を経て、聖霊降臨によって完成されます。ルカの続編である使徒行伝では、ペンテコステの日に聖霊が弟子たちに下り、彼らは大胆に福音を宣べ伝え始めました(使徒行伝2章)。この聖霊降臨は、イエスが約束した「高いところからの力」の成就であり、弟子たちを証人として世界に送り出す原動力となりました。「絶えず宮にいて」は、単に物理的な場所に留まることではなく、神の臨在を意識し、礼拝と賛美に生きる姿勢を表します。
私たちにとって、「絶えず宮にいる」生活は、教会での礼拝を超えて、日常の中で神とのつながりを保つことを意味します。スマートフォンや忙しいスケジュールに支配されがちな今の社会では、神に心を向ける時間を確保することが挑戦です。それでも、以下のような具体的な方法で、この生活を実践できます。まず、毎日の祈りの時間を設けること。朝の静かなひとときや、夜の振り返りの時間に、神に心を向ける習慣は信仰を深めます。次に、信仰のコミュニティに参加すること。弟子たちは共に祈り、励まし合いました。教会や小さな集まりで信仰を分かち合うことは、私たちを力づけます。さらに、日常の行動で神の愛を反映すること。親切な言葉、困っている人への支援、誠実な態度を通じて、私たちは神をほめたたえることができます。
物質的な豊かさと技術の進歩にもかかわらず、孤独や不安に悩む人が多い時代を私たちは生きています。復活、昇天、聖霊降臨という一連の出来事は、私たちに永遠の希望と力を与えます。イエスの昇天は、彼が神の右に座し、すべてのものを支配していることを示します。聖霊降臨は、その力が私たちの内に働き、日常の挑戦に立ち向かう力を与えることを保証します。「絶えず宮にいて」は、忙しい生活の中で神を見失わず、信仰に根ざして生きる姿勢を教えてくれます。たとえば、職場のストレスに直面したとき、聖霊の導きを求めて祈ることで、冷静さと希望を取り戻せます。家庭や友人との関係で葛藤があるとき、キリストの愛に倣って赦しと和解を選ぶことができるのです。
ルカ24章44節から53節は、復活されたイエスが弟子たちに聖書の成就、福音の使命、聖霊の約束を伝え、昇天する場面を描きます。弟子たちはこの出来事を受け止め、聖霊降臨を待つ中で祈りと賛美に生き、「絶えず宮にいて」神をほめたたえました。私たちも、復活と昇天の希望、聖霊の力に支えられ、信仰の生活を送るよう召されています。忙しい日々において、「絶えず宮にいて」は、日常の中で神とのつながりを保ち、喜びと賛美をもって生きる姿勢を意味します。聖霊の導きを信頼し、キリストの愛を反映する生活を通じて、私たちは神の救いの計画に参与し、周囲に希望を広げることができるのです。