深谷教会復活節第6主日礼拝2025年5月25日
司会:佐藤牧師
聖書:マタイによる福音書6章1~15節
説教:「ただ、神のために」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-83,579
奏楽:野田周平兄
説教題:「ただ、神のために」 マタイ福音書6章1~15節 佐藤嘉哉牧師
マタイによる福音書6章1節から15節は、主イエス・キリストが山上の垂訓の中で語られた、信仰生活の核心に触れる教えです。この箇所で主イエスは、施し、祈り、断食といった宗教的行為を、人に見せるためではなく、ただ神のために行うことの大切さを説きます。現代社会において、わたしたちは自分の行動が他者にどう映るかを意識しすぎる傾向があります。ソーシャルメディアで「共感」を集めようとしたり、他人からの評価を求めて行動したりすることが少なくありません。しかし、主イエスは、わたしたちの動機が神に向けられているかどうかを問われます。わたしたちの思いは、自己顕示や世間の承認を求める方向に流れがちですが、神の思いは純粋にわたしたちの心の内側を見つめ、愛と真実に基づく関係を求めておられます。この両者の間に生じる乖離を埋めるのが、主イエスの十字架の死と復活です。今日は、この聖句から、現代のわたしたちがどのように「ただ、神のために」生きることができるのかを考えます。
「施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」(マタイ6:2)。主イエスは、施しを行う際の動機の純粋さを求めます。現代では、慈善活動やボランティアが社会的な評価や自己実現の手段として行われることがあります。例えば、企業がCSR(企業の社会的責任)活動を宣伝したり、個人がSNSで寄付の様子を公開したりすることが一般的です。しかし、主イエスは、施しが人々の称賛を得るための道具になってはならないと警告されます。神の前でのみ行う施しは、自己を誇る心を抑え、他者を真に愛する行為です。わたしたちの思いは、他人からの承認を求めることで曇りがちですが、神の思いは、純粋な愛と奉仕を喜ばれます。この乖離を埋めるために、主イエスはご自身の十字架の死によって、自己中心的な心を贖い、神に向かう道を示されました。わたしたちは、施しを通して、自己ではなく神の栄光を求める生き方を学ぶのです。施しは、単なる物質的な援助ではなく、神の愛を反映する行為であり、わたしたちの心を神の思いに近づける機会です。このようにして、わたしたちは自己中心的な動機を離れ、神の御心にかなう奉仕を追求することができます。
「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじで立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」(マタイ6:5)。主イエスは、祈りが人に見せるためのものではなく、神との親密な対話であることを強調されます。現代のわたしたちは、忙しい日常の中で祈りの時間を確保することが難しいと感じることがあります。また、SNSや公開の場で信仰をアピールする傾向も見られます。例えば、祈りの言葉を投稿することで、自分の信仰心を誇示しようとする場合があります。しかし、主イエスは、隠れたところでの祈りを大切にしなさいと教えられます。神との親密な関係は、静かな部屋での個人的な祈りの中で育まれます。わたしたちの思いは、他人に認められることを求めて外に向かいがちですが、神の思いは、わたしたちが心から神を求め、信頼する姿を喜ばれます。主イエスの十字架は、わたしたちが神との関係を回復するための架け橋です。復活によって、主イエスはわたしたちが神と直接つながる道を開き、祈りを通して神の思いに近づく力を与えてくださいました。祈りは、わたしたちの心を神に向け、日常の喧騒から離れて神の平安に浴する機会です。この親密な対話を通じて、わたしたちは神の愛と導きを深く体験し、信仰を強めていくのです。
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、『天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように』」(マタイ6:9-10)。主イエスが教えた「主の祈り」は、わたしたちの祈りの模範であり、神の国の視点を持つことの大切さを示します。現代社会では、自己中心的な願いや物質的な成功を求める祈りが優先されがちです。仕事の成功や健康、経済的な安定を求める祈りは自然なものですが、それだけでは神の国の視点を欠いてしまいます。主の祈りは、まず神の名があがめられ、み国が来ることを求めることから始まります。これは、わたしたちの思いが自分の欲望や不安に支配されがちなのに対し、神の思いがこの世界全体の救いと調和を求めるものであることを示します。主イエスの十字架の死は、神の国の実現のために捧げられた究極の犠牲です。復活によって、わたしたちは神の国の希望に生きることができるようになり、祈りを通して神の思いに合わせた願いを学ぶのです。主の祈りは、わたしたちの視点を自己から神の国へと転換させる力を持っています。この祈りを実践することで、わたしたちは自分の小さな世界を超え、神の大きな計画に参加する喜びを知るのです。神の国の視点は、わたしたちの祈りをより深く、意味あるものに変えます。
「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。」(マタイ6:14)。主イエスは、赦しが信仰生活の中心にあることを教えられます。現代のわたしたちは、自分の立場での対立や意見の衝突、個人的な不和によって、赦しが難しいと感じることが多いでしょう。誰かからの批判や裏切りを経験すると、怒りや恨みを抱き続けることがあります。しかし、主イエスは、わたしたちが神から受けた赦しを、他人にも反映させることを求めます。わたしたちの思いは、自己を守るために他人を拒絶しがちですが、神の思いは、愛と赦しによって関係を修復することにあります。主イエスの十字架は、神の赦しの究極の表現です。わたしたちの罪のために死に、復活によって新しい命を与えてくださった主イエスは、赦しの実践を可能にする力を与えます。赦しは、単なる感情の解放ではなく、神の愛をこの世に示す積極的な行為です。わたしたちは、赦しを通して、神の愛を具体的に現し、対立や分断が支配する現代社会に和解の光をもたらすことができます。この赦しの姿勢は、わたしたちの心を神の思いに近づけ、互いに愛し合う共同体を築く礎となるのです。
「あなたがたが断食する時には、偽善者たちのような悲しげな顔をするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、顔を汚す。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」(マタイ6:16)。断食は、自己を抑え、神に献身するための行為です。現代では、断食がダイエットや健康法として注目されることがありますが、主イエスが教える断食は、神への内なる献身を深めるためのものです。忙しい現代人は、時間や欲望をコントロールすることに苦労します。そして日々来る情報を処理するのに時間を費やし、神との静かな時間を後回しにしがちです。しかし、断食は、物質的な欲望から離れ、神に心を向ける機会を与えます。わたしたちの思いは、即座に満足を求めることに囚われがちですが、神の思いは、わたしたちが内なる霊的な成長を求めることを喜ばれます。主イエスの十字架の死は、自己を犠牲にして神に従う模範を示し、復活はわたしたちに新しい生き方を与えます。断食は、わたしたちが主イエスの犠牲に倣い、神のための純粋な献身を学ぶ機会です。この行為を通じて、わたしたちは自分の弱さを認め、神の力に頼ることを学びます。断食は、わたしたちの心を神に明け渡し、物質的なものに縛られない自由な生き方を可能にします。
マタイ6章1節から15節は、わたしたちに「ただ、神のために」生きることを教えています。施し、祈り、断食といった行為は、人の称賛を求めるものではなく、神との関係を深めるためのものです。現代社会において、わたしたちの思いは自己中心的な動機や世間の評価に流されがちですが、神の思いは、わたしたちが愛と真実に基づいて生きることを求めておられます。この両者の乖離を埋めるのが、主イエス・キリストの十字架の死と復活です。主イエスは、ご自身の犠牲によってわたしたちの罪を贖い、神との関係を回復してくださいました。復活によって、わたしたちは神の思いに沿って生きる力を与えられています。今日、わたしたちはこの教えを心に刻み、施し、祈り、赦し、断食を通して、ただ神のために生きる決心を新たにしましょう。主イエスが架け橋となって、わたしたちの思いを神の思いに結びつけてくださることを信じ、感謝をもって歩んでいきましょう。わたしたちが神の愛に根ざし、互いに愛し合い、神の国をこの地上に現す者となるよう祈ります。主イエスの十字架と復活は、わたしたちが神の思いに生きる希望と力の源です。この希望に生き、ただ神のために歩む人生を選びましょう。