「素直に信じられたらどれ程良いだろう」ヨハネによる福音書14:1~11

深谷教会復活節第5主日礼拝2025年5月18日
司会:佐藤牧師
聖書:ヨハネによる福音書14章1~11
説教:「素直に信じられたらどれ程良いだろう」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-498,516
奏楽:野田治三郎兄

  説教題:「素直に信じられたらどれ程良いだろう」 ヨハネ福音書14:1-11  佐藤嘉哉牧師

 ヨハネによる福音書14章1節から11節は、主イエスが十字架を目前に弟子たちに語った慰めと挑戦の言葉です。動揺する弟子たちに、主イエスは「あなたがたの心を騒がせないがよい。」と語り、信仰による平安を約束します。同時に、「わたしを信じなさい」「わたしを見た者は、父を見たのである」と、信仰の核心を問う言葉を投げかけます。これらの言葉は、2025年現在日本や世界が直面する不安定な情勢の中で、私たちの信仰の難しさと向き合うための光を与えます。経済の停滞、気候変動、国際紛争、そして個々の生活の試練等…。これらが私たちの心を騒がせます。「素直に信じられたらどれ程良いだろう」。この切実な思いを胸に、聖書の言葉から信仰の課題を探り、その先に輝く希望を見出したいと思います。
 主イエスは弟子たちに「心を騒がせないがよい。」と語りますが、この言葉は彼らの内面の混乱を映し出します。主イエスに従い、奇跡と教えに触れてきた弟子たちでさえ、十字架の危機を前に不安に飲み込まれました。今日の私たちも、似たような動揺を経験します。2025年の日本では、少子高齢化や経済停滞が社会の不安を増幅しています。世界に目を向けると、気候変動による災害の頻発や、ウクライナや中東での紛争の長期化が、平和への希望を揺さぶります。パンデミックの記憶もまだ新しく、将来への不確実性が私たちの心を締め付けます。またわたしたち個人の問題も、時に自分の力では解決することが難しい課題がたくさんあると思います。こうした現実の中で信仰は試されます。神の愛や導きを信じたいと願いつつ、ニュースで流れる悲劇や、身近な生活の重圧が、信頼を揺らがせます。たとえば、失業や健康問題に直面した時、「神は本当に共にいるのか」と疑念が湧く。トマスのように、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません」(ヨハネ14:5)と、率直に戸惑いを口にしたくなる瞬間です。信仰は目に見えない神の約束に身を委ねることですが、目に見える現実があまりにも重い時、素直に信じるのは容易ではありません。
 信仰を妨げるもう一つの壁は、自己中心的な視点です。ピリポは主イエスに「わたしたちに父を示してください。そうすれば満足します」(ヨハネ14:8)と要求します。この言葉には、自分の納得や都合を優先する姿勢が垣間見えます。現代社会でも、私たちは同じ罠に陥りがちです。日本の若者の間では、自己実現や個人の幸福を追求する価値観が強調され、SNSやメディアは「自分らしさ」を追い求める文化を助長します。世界的に見ても、物質的な成功や即時的な満足を優先する風潮が広がっています。
 こうした価値観は、信仰を複雑にします。祈りの中で、自分の望む答えや結果を期待し、それが得られないと失望する。神の存在を、自分の理解や枠組みで測ろうとする。主イエスはピリポに「わたしを見た者は、父を見たのである」と答え、自己中心的な視点を超えて、主イエスその人に目を向けるよう促します。しかし、私たちは神の計画を信頼するよりも、自分の思いを優先してしまう。それゆえ、素直に信じることが遠く感じられるのです。
 信仰の難しさは、信頼を継続することの困難さにも表れます。弟子たちは主イエスと三年以上共に過ごし、その言葉と業を目の当たりにしました。それでも、「わたしが父のもとに行く」と告げられた時、彼らは動揺し、理解できずに戸惑いました。現代の私たちも、信仰の歩みの中で一度は神の愛を確信したことがあるかもしれません。しかし、試練が続くと、その確信が揺らぎます。日本の忙しい生活リズムや、情報過多の社会は、私たちに内省や祈りの時間を奪います。世界的な競争社会の中で、常に「次へ」と急かされる感覚は、信仰の継続を難しくします。たとえば、祈りがすぐに答えられない時、「神は聞いておられるのか」と疑念が湧く。長引く苦しみの中で、「神の計画はどこにあるのか」と不満を抱く。スマートフォンの通知や仕事の締め切りに追われる日々では、神のタイミングを待つ余裕が失われがちです。主イエスが約束する平安は、継続的な信頼によってのみ得られるものですが、現代のせわしさがその信頼を脆弱にします。素直に、ただ神に委ねることができたらどんなに心が軽くなるでしょうか。
 さらに、2025年の日本と世界の情勢は信仰そのものの希薄さを浮き彫りにします。日本では宗教への関心が低下し、特に若い世代ではスピリチュアルな探求すら個人の趣味の域を出ないことが多いです。世界的に見ても、世俗化が進み科学や技術への信頼が神への信頼を上回る傾向があります。AIや医療の進歩は素晴らしい恵みですが、時に「神はいらない」という思いを助長します。このような時代に主イエスの「わたしを信じなさい」という呼びかけに応えることは、なおさら難しい挑戦です。
 こうした社会の流れは、信仰を個人的な選択やオプションに貶めます。主イエスを信じることは、単なる意見やライフスタイルではなく、人生全体を神に委ねる決断です。しかし、現代の多様な価値観や相対主義は、「絶対的な真理」を信じる姿勢をためらわせます。ピリポやトマスのように、私たちも「もっと証拠が欲しい」「もっとわかりやすい神の現れが見たい」と願ってしまう。素直に信じることが、時代に逆行するように感じられるのです。
 これらの課題、即ち心の動揺、自己中心性、信頼の継続性の欠如、現代社会の信仰の希薄さは、私たちに深いため息をつかせます。「素直に信じられたらどれ程良いだろう」。この思いは、弟子たちが主イエスの言葉を聞きながら抱いたであろう願いと同じです。彼らは主イエスを愛し従おうとしていましたが、完全には信じきれず理解しきれませんでした。2025年の私たちも、経済的不安や気候危機、個々の試練の中で、神を信じたいと願いつつ疑いや恐れに引き戻されます。
 しかし、この「素直に信じたい」という思いは信仰の出発点でもあります。それは私たちが自分の限界を認め、神の助けを必要としていることを自覚する瞬間です。主イエスは弟子たちの弱さを知りながら、「わたしを信じなさい」と優しく招きます。この招きは現代の私たちにも向けられています。信仰は私たちの力だけで成り立つものではなく、神の恵みによって支えられるものなのです。
ヨハネ14章1節から11節は、信仰の難しさと向き合う私たちに、時代を超えた希望を与えます。聖書学的に見ると、この箇所はヨハネ福音書全体のテーマである「主イエスを通じた神との一致」を強調しています。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と宣言し、父なる神に至る唯一の道を示します。この言葉は、弟子たちの動揺やピリポの要求を超えて、神の計画が主イエスにおいて完成していることを明らかにします。ヨハネの福音書は、主イエスが神の言葉(ロゴス)として人となり、私たちと神をつなぐ架け橋であることを繰り返し証します(ヨハネ1:14)。
 現代の日本や世界の情勢は、信仰を試す嵐のようなものです。経済の不確実性、環境危機、平和の欠如は、私たちの心を騒がせます。しかし主イエスはそんな私たちを招き続けます。「わたしを信じなさい」という言葉は単なる命令ではなく、愛に満ちた約束です。聖書学者によればヨハネ14章の文脈は、弟子たちの失敗や不信仰を最終的に神の栄光へと変える神の力を示唆しています。ペトロの裏切り、トマスの疑い、ピリポの誤解。これらはすべて、復活の光の中で新しい意味を持ちます。だからこそ信仰の難しさの先に希望があります。私たちが素直に信じられない時に神は私たちを見捨てず、聖霊を通して導き支えてくださいます(ヨハネ14:16-17)。信仰は一瞬の決断ではなく生涯をかけた旅です。日本の忙しい日常や世界の複雑な課題の中で、信仰の旅を続けることは容易ではありません。始めるならなおさらです。しかし主イエスは「わたしの父の家には住む所がたくさんある」(ヨハネ14:2)と約束します。この希望は気候変動や紛争を超え、すべての試練を超えて、私たちを永遠の住まいへと導きます。「素直に信じられたらどれ程良いだろう」という願いは決して終わることのない憧れですが、同時に神の愛に近づく一歩です。2025年の私たちは自分の弱さを知り、神の恵みに頼ることを学びます。主イエスは私たちの側に立ち、どんな時代にあっても、私たちを父の家へと導いてくださいます。この確かな希望を胸に、今日も信仰の旅を歩み続けましょう。

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