「ラザロの生き返り」ヨハネによる福音書11:17~45

深谷教会復活節第4主日礼拝2025年5月11日
司会:佐藤牧師
聖書:ヨハネによる福音書11章17~45節
説教:「ラザロの生き返り」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-470、510番
奏楽:小野千恵子姉

   説教題:「ラザロの生き返り」 ヨハネ11:17-45   佐藤嘉哉牧師

 ヨハネによる福音書11章17~45節は、主イエスがラザロを死から呼び戻す奇跡の物語です。この出来事は、主イエスの神聖な力と愛を示すだけでなく、ラザロの姉妹であるマルタとマリアの心の動きを通じて、人間の信仰と希望の深さを浮き彫りにします。今日は特に、マルタとマリアの視点からこの物語を味わい、彼女たちの思いが「母の日」の精神とどのように響き合うかを考えます。母の日は、母の愛や犠牲を尊ぶ日であり、マルタとマリアの物語は、家族への深い愛と信頼を通じて、この日の意義を照らします。彼女たちの悲しみと希望は、母の愛が持つ力と神の愛の結びつきを映し出し、母の日の本質を深く示します。
 主イエスがベタニアに到着したとき、ラザロはすでに死に、墓に葬られて四日が経っていました。マルタは主イエスを村の外で迎え、こう言います。「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」(11:21)。この言葉には、深い悲しみと同時に、主イエスへの信頼が込められています。マルタは主イエスの力を信じていましたが、弟の死という現実を前に、彼女の心は揺れ動いていました。彼女の言葉は、まるで「なぜもっと早く来てくれなかったのか」という問いを秘めているようです。この葛藤は、彼女がラザロをどれほど愛し、彼の命を救いたいと願っていたかを示しています。
 マルタの思いは、母の心に通じるものがあります。母は家族を守るため、いつも最善を尽くします。子どもが病気になったとき、母は「もし私がもっと早く気づいていれば」と自らを責めるかもしれません。マルタもまた、家族であるラザロを失った悲しみの中で、自分に何かできたのではないかと心を痛めたことでしょう。彼女の信仰は、悲しみの中で試されながらも、主イエスに希望を見出そうとしていました。彼女の心は、家族への愛と神への信頼の間で揺れ、なお前を向いていました。
 主イエスはマルタに言います。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(11:25-26)。この言葉は、マルタの悲しみを包み込む希望の光でした。マルタは答えます。「はい、主よ、あなたが神の子であると信じています」(11:27)。彼女の信仰は、悲しみの中で試され、なお主イエスに根ざしていました。この信頼は、母が子どもを信じ、どんな困難の中でも希望を失わない姿に似ています。母の日は、こうした母の信仰と愛を思い起こす機会です。マルタの心は、母の愛が持つ忍耐と希望を映し出します。
 マルタが家に戻り、マリアを呼ぶと、マリアは急いで主イエスのもとに走ります。彼女は主イエスの足元にひれ伏し、泣きながら言いました。「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」(11:32)。マルタと同じ言葉ですが、マリアの口調には、感情の奔流が感じられます。彼女は涙を抑えず、悲しみをそのまま主イエスにぶつけました。彼女の行動は、抑えきれない愛と痛みの表現でした。
 マリアの涙は、家族への深い愛の表れです。彼女はラザロを失った痛みを全身で表現し、主イエスに心を明け渡しました。この姿は、母が子どものために流す涙を思い起こさせます。母の涙は、言葉を超えた愛の証です。母の日は、こうした母の無条件の愛を讃える日です。マリアの涙は、彼女がどれほどラザロを愛し、彼の死を悼んでいたかを示しています。しかし、彼女の涙は単なる悲しみにとどまりませんでした。主イエスに訴えることで、彼女は希望を求めていたのです。彼女の心は、絶望の中でなお主イエスにすがる信仰を持っていました。
主イエスはマリアの涙を見て「心に憤りを覚え、興奮して」(11:33)、さらに「涙を流された」(11:35)。主イエスが涙を流されたのは、マリアの悲しみに共感し、彼女の痛みを共に担われたからです。この場面は、主イエスが私たちの苦しみを理解し、寄り添ってくださる神であることを示します。母もまた、子どもの痛みを自分の痛みとして感じ、共に泣く存在です。マリアの涙と主イエスの涙は、母の日の精神――愛と共感――を深く映し出します。母の愛は、共感を通じて家族を支え、希望をつなぎます。
 主イエスはラザロの墓の前で、「石を取りのけなさい」と命じます(11:39)。マルタは現実的に、「主よ、四日もたつと臭います」と答えます(11:39)。彼女の言葉には、死の重さが表れています。しかし、主イエスは彼女に、「もし信じるなら、神の栄光を見る」と言われ(11:40)、マルタは再び信頼を選びます。マリアもまた、黙って主イエスの行動を見守ります。姉妹の心は、悲しみと希望の間で揺れながら、主イエスに委ねられていました。彼女たちの信仰は、家族への愛に支えられていました。
 主イエスが「ラザロ、出て来なさい」と叫ぶと、死んでいたラザロが生き返り、墓から出てきます(11:43-44)。この奇跡は、マルタとマリアの信仰が報われた瞬間でした。彼女たちの悲しみは喜びに変わり、絶望は希望に変えられました。この出来事は、母の愛がもたらす希望を象徴します。母は、どんなに困難な状況でも、子どもの未来を信じ、希望を持ち続けます。母の日は、こうした母の不屈の精神を祝う日です。マルタとマリアの喜びは、母が子どもの幸せを見るときの喜びに通じます。
 マルタとマリアが見た奇跡は、単なるラザロの復活にとどまりません。それは、主イエスが死に勝利し、命を与える方であることを示しました。彼女たちの信仰は、家族への愛と主イエスへの信頼によって強められました。この物語は、母の愛が神の愛とつながっていることを教えてくれます。母の日は、母の愛を通じて神の愛を思い起こす日でもあるのです。マルタとマリアの経験は、愛と信仰が奇跡を生むことを示しています。
 マルタとマリアの物語は、母の日の由来と深く響き合います。母の日は、アメリカでアンナ・ジャーヴィスが、亡母の愛と平和への願いを讃えるために始めた運動に由来します。彼女は、母の無私の愛が社会を変える力を持つと信じました。マルタとマリアもまた、家族への愛と主イエスへの信仰を通じて、希望と命の奇跡を経験しました。彼女たちの物語は、母の愛が悲しみを乗り越え、希望を生み出す力を持つことを示しています。母の愛は、家族を結びつけ、未来への希望を育みます。
 マルタの信仰は、母がどんな試練の中でも子どもを信じる姿を映し、マリアの涙は、母が子どものために流す愛の涙を象徴します。彼女たちの信頼と愛は、主イエスの奇跡を通じて完成されました。母の日は、母の愛が神の愛と結びつき、命と希望をもたらすことを祝う日です。私たちは、マルタとマリアのように、愛と信仰をもって家族を支える母たちに感謝し、彼女たちの犠牲と希望を尊びます。母の愛は、神の愛を映す鏡であり、家族に命を与える力です。
 ラザロの生き返りの物語は、マルタとマリアの心を通じて、母の愛の深さと力を教えてくれます。彼女たちの悲しみ、涙、信頼は、母が家族のために示す無条件の愛と希望を映し出します。母の日は、こうした愛を讃え、神の愛に感謝する日です。私たちがマルタとマリアの信仰に倣い、愛と希望をもって歩むとき、主イエスは私たちの人生にも命の奇跡をもたらしてくださいます。母の愛を通じて、神の愛を覚え、感謝をもってこの日を祝いましょう。母の愛は、永遠の希望の源です。

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