深谷教会復活節第3主日礼拝2025年5月4日
司会:佐藤牧師
聖書:マタイによる福音書12章38~42節
説教:「人はしるしを知りたがる」
佐藤義也牧師
讃美歌:21-437,51
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「人はしるしを知りたがる」 マタイ12:38-42 佐藤嘉哉牧師
マタイによる福音書12章38節から42節は、私たち人間が神の存在や主イエス・キリストの力に対して「しるし」を求める姿を描いています。この場面で、パリサイ人や律法学者たちは主イエス・キリストに「しるしを見せてほしい」と迫ります。彼らは主イエス・キリストが本当に神の子であることを証明する、目に見える奇跡や証拠を欲したのです。しかし、主イエス・キリストはこの要求に対して、ヨナのしるしとシバの女王の例を挙げ、彼らの心の頑なさを指摘されます。
現代を生きる私たちも、しばしば同じように「しるし」を求めてしまうことがあります。神の存在を確かめたい、祈りが聞かれた証拠を見たい、主イエス・キリストの復活が本当だと証明してほしい・・・。そんな思いが心に浮かぶ瞬間があるかもしれません。しかし、この聖書の箇所は、神の意思は私たちの求める「しるし」とは異なることを教えてくれます。今日はこの箇所を通して、神が私たちに本当に伝えたいこと、そして現代の私たちに共通するメッセージを、わかりやすく考えていきましょう。
マタイ12章38節で、律法学者とパリサイ人たちは主イエス・キリストにこう言います。「先生、わたしたちにしるしを見せてください。」彼らは主イエス・キリストがすでに多くの奇跡を行っていたことを知っていました。病を癒し、悪霊を追い出し、パンを増やす奇跡さえも目撃していたかもしれません。それなのに、彼らはさらに「しるし」を求めたのです。なぜでしょうか。彼らの要求の背後には、単なる好奇心以上のものがありました。それは、主イエス・キリストを試し、疑う心です。彼らは心から信じようとするのではなく、自分の基準で神の力を測ろうとしたのです。「本当に神の子なら、もっと劇的なしるしを見せなさい」と要求することで、彼らは神の権威を自分たちの手に握ろうとしたのです。
この姿は、現代の私たちにも見られるのではないでしょうか。科学や技術が進んだ現代では、目に見える証拠や論理的な証明が重視されます。神の存在を信じるために、「奇跡を見せてほしい」「祈りがすぐに答えられるなら信じる」と考えることがあります。特に、主イエス・キリストの復活という出来事は、歴史上最も重要な神の業ですが、それを受け入れるためには信仰が必要です。しかし、私たちはその信仰の前に、「復活の証拠を見せてほしい」としるしを求めてしまうことがあります。
しかし、主イエス・キリストは、しるしを求める姿勢が必ずしも信仰につながるとは限らないことを教えておられます。なぜなら、しるしを見たとしても、心が神に向いていなければ、真の信仰には至らないからです。パリサイ人たちは多くの奇跡を見ましたが、心を閉ざし、主 イエス・キリストを拒みました。現代の私たちも、同じ過ちを犯す危険があるのです。
これに対して、主イエス・キリストは39節でこう答えられます。「よこしまで神に背いたこの時代は、しるしを欲しがるが、ヨナのしるし以外には、決してしるしは与えられない。」ここで主イエス・キリストが語る「ヨナのしるし」とは、ヨナが大きな魚の腹に三日三晩いた後、地上に戻された出来事を指しています。これは、主イエス・キリストご自身の死と復活を象徴するものです。
ヨナの物語を思い起こしてみましょう。ヨナは神の命令に背き、ニネベに遣わされることを拒みました。しかし、神は彼を魚の腹に閉じ込め、三日三晩の後に救い出されました。この経験を通して、ヨナは神の力と憐れみを学び、ニネベの人々に悔い改めを宣べ伝えました。そして、ニネベの人々はヨナの言葉を聞き、悔い改めて神に立ち帰ったのです。
主イエス・キリストは、このヨナのしるしを自分に結びつけます。40節で、「ヨナが三日三晩、大きな魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいる」と語られます。これは、主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活を明確に示しています。神が与える最大のしるしは、奇跡的な光景や一時的な驚きではなく、主イエス・キリストの死と復活なのです。ちなみにこのヨナの出来事はグリム童話やディズニーアニメのピノキオのモデルとされています。
しかしこのしるしは、パリサイ人たちが期待したような派手なものではありませんでした。彼らは空から火が降るような劇的なしるしを求めたかもしれませんが、神の意思は異なります。神のしるしは十字架の謙遜と復活の希望に現れるのです。主イエス・キリストの復活は、罪と死に対する神の勝利を宣言する、永遠のしるしです。これ以上のしるしは必要ない、と主イエス・キリストは教えておられるのです。
現代の私たちにとっても、このメッセージは重要です。私たちは神の存在や愛を証明するために、目に見えるしるしを求めたくなることがあります。しかし、神はすでに最大のしるしを与えてくださいました。それは、主イエス・キリストの十字架と復活です。このしるしを受け入れるとき、私たちは神の意思に心を開き、真の信仰へと導かれます。
主イエス・キリストはさらに、41節と42節で、ニネベの人々とシバの女王を例に挙げます。「ニネベの人々は、裁きの日にこの時代の者たちと共によみがえり、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教によって悔い改めたからだ。見よ、ここにヨナにまさる者がいる。」また、「南の女王は、裁きの日にこの時代の者たちと共によみがえり、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てからやって来たからだ。見よ、ここにソロモンにまさる者がいる。」ニネベの人々は、ヨナの言葉を聞いて悔い改めました。彼らは神のしるしを求めず、ヨナのメッセージに心を動かされ、神に立ち帰ったのです。同様に、シバの女王はソロモンの知恵を求めて遠くから旅をしてきました。彼女は自分の目で確かめる前に、ソロモンの評判を信じ、行動を起こしました。
しかし、パリサイ人たちは、ヨナやソロモンよりもはるかに偉大な主イエス・キリストを前にしながら、心を閉ざしました。彼らはしるしを求めて主イエス・キリストを試しましたが、ニネベの人々やシバの女王のような信仰の応答を示さなかったのです。この対比は、現代の私たちにも挑戦を投げかけます。私たちは、主イエス・キリストの福音を聞く機会に恵まれています。聖書を通して、教会を通して、さまざまな形で主イエス・キリストのメッセージが届けられています。しかし、私たちはそのメッセージに心を開いているでしょうか。それとも、しるしを求めて、信仰の第一歩を踏み出すことをためらっているでしょうか。
ニネベの人々やシバの女王のように、私たちも神の言葉に素直に応答することが求められています。しるしを待つのではなく、すでに与えられている主イエス・キリストの福音を信じ、行動に移すことが、真の信仰の姿なのです。
マタイ12章38節から42節は、しるしを求める人間の姿と、神の与える真のしるしについて教えてくれます。パリサイ人たちは主イエス・キリストにしるしを求めましたが、彼らの心は神に向いていませんでした。しかし、主イエス・キリストは、ヨナのしるしすなわち十字架の死と復活こそが神の最大のしるしであると宣言されました。このしるしは、すべての時代、すべての人々に与えられた、神の愛と救いの証です。
現代の私たちも、しるしを求めて神を試すことがあります。神の存在や主イエス・キリストの復活を確かめるために、目に見える証拠を欲することがあるかもしれません。しかし、神の意思は、私たちがしるしを求めることではなく、すでに与えられているしるしを受け入れることです。主イエス・キリストの復活は、私たちの罪を赦し、永遠の命を与える神の力の証明です。ニネベの人々やシバの女王のように、私たちも神の言葉に心を開き、信仰をもって応答しましょう。しるしを待つのではなく、主イエス・キリストを信じ、従う一歩を踏み出すとき、私たちは神の愛と恵みを豊かに体験することができるのです。