深谷教会復活節第2主日礼拝2025年4月27日
司会:佐藤嘉哉牧師
聖書:マタイによる福音書28章11~15節
説教:「火のない所に煙は立つ」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-83,335
奏楽:野田周平兄
説教題:「火のない所にも煙立つ」 マタイ福音書28:11~15 佐藤嘉哉牧師
今日、私たちはマタイによる福音書28章11節から15節に耳を傾けます。この箇所は、イエス・キリストの復活直後に、墓の番をしていた兵士たちが祭司長たちに買収され、「弟子たちが夜中に遺体を盗んだ」という偽りの噂を広めた出来事を描いています。この噂は、火のない所に煙を立て、復活の真理を覆い隠そうとする試みでした。現代社会でも、噂や誤情報はSNSやインターネットを通じて瞬く間に拡散され、真理を曇らせます。根拠のない話が人々の心を惑わし、時に信仰を揺さぶります。今日の説教では、聖書のこの場面を通じて、噂がキリストの十字架の意味をいかに歪めるかを考えていきたいと思います。
マタイ28章11-15節では兵士たちが復活の光景、つまり天使の出現、転がされた墓の石、空の墓を目撃しながら、祭司長たちの賄賂を受け偽りの噂を広めます。なぜこのような噂が生まれたのでしょうか。動機は二つあります。ひとつは、祭司長たちの権力と地位を守りたい欲望です。イエスの復活が広まれば、彼らの宗教的影響力が失われると恐れたのです。もうひとつは、兵士たちの恐怖と欲です。任務失敗の責任を問われることを避け、賄賂に目がくらんだのです。このように、噂は利己的な動機や恐れから生まれます。 現代でも噂は似た動機から広がります。SNS上のフェイクニュースやデマは注目を集めたり、特定のグループの利益を守ったりするために意図的に広められます。例えば2024年1月1日に発生した能登半島地震の時、無関係の人がSNS上で救助を求める投稿をしたことで現場が大混乱に陥ったことがあります。またキリスト教を「時代遅れ」と揶揄する投稿がされたり、新興宗教とキリスト教を同一視して、教会を金儲けの道具と決めつける誤情報が流れて来たりします。こうした噂は火のない所に煙を立て、キリストの愛や十字架のメッセージを曇らせています。 兵士たちの噂はユダヤ人の間に広まり、復活の奇跡を「遺体盗難事件」にすり替えました。これが今日までユダヤの人々の常識となっていると聖書に書かれているわけです。この偽りは人々の心に疑いと不信を植え付け、キリストの十字架と復活の真の意味を曇らせました。十字架は私たちの罪のための贖いであり、神の愛の究極的な表現です。復活は死に対する勝利と永遠の命の約束です。しかし噂はこれを矮小化し、キリストの神聖な使命を単なる物語に変えてしまいます。
現代でも、キリスト教に対する誤解を助長する噂が後を絶ちません。「キリスト教は科学と相容れない」「教会は偽善者の集まりだ」といった声が、SNSやメディアを通じて広まります。たとえば若者がキリスト教を嘲笑する投稿に触れ、教会を訪れる前に信仰を否定してしまうケースが増えています。こうした噂は十字架の救いの力を覆い隠し、人々を神の愛から遠ざけます。さらに噂は心の中にも忍び込みます。「神は本当に私を愛しているのか」「私の罪は赦されるのか」といった疑いは、まるで内なる噂のように十字架の真理を曇らせ、不安や恐れを生みます。このように噂は外からも内からも私たちの信仰を揺さぶるのです。
わたしたちは噂にどう立ち向かうべきでしょうか。マタイ28:11-15節は兵士たちの偽りが復活の事実を消せなかったことを示します。空の墓と弟子たちの証しは、真理の勝利を証明しました。私たちもキリストの真理に立つことで、噂に打ち勝つことができます。
第一に、聖書の言葉にしっかりと根ざすべきです。聖書は揺るぎない信仰の土台だからです。ヨハネ16章33節でイエスは「世にあっては苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は世に勝った」と宣言します。この言葉は、噂や試練を超えるキリストの力を思い出させます。 第二に、教会共同体の中で支え合いましょう。使徒言行録2章42節に見る初代教会は、使徒の教え・交わり・パンを裂くこと・祈りに専念しました。こうした交わりは孤立を防ぎ、噂に惑わされない信仰を育みます。第三に、キリストの愛を具体的な行動で示すこと。隣人への親切、困窮者への支援、赦しと和解の実践は、噂を超えて十字架の光を輝かせます。行動が義とするのではありません。ただひたすらに信じることで、私たちは自ずと行動へと向かうのです。行動による証しはどんな偽りの言葉よりも力強く、キリストの真理を世に示します。
聖書は噂を広めることの罪深さと、惑わされないための知恵を明確に教えます。まず噂を広める人への戒めが旧約聖書のいたるところに書かれています。箴言10章18節は「偽りを隠す者は憎しみを抱き、愚かな噂を広める者は愚か者である」と警告します。また新約聖書にも書かれています。ヤコブの手紙3章5-6節は、舌を「小さな火が大きな森を燃やす」と例え、噂の破壊力を示します。兵士たちが祭司長の指示で偽りを広めたように、軽い気持ちで噂を共有することは神の愛と正義に反する罪へと繋がっていきます。エフェソ4章29節は「口から出る言葉は、いつも親切で、聞く人に恵みを与えるものにしなさい」と命じます。私たちは噂を広める愚かさを避け、キリストの愛を反映する言葉を選ぶよう求められています。
次に、噂を信じないための警告も聖書に書かれています。旧約聖書の箴言14章15節には「思慮のない者はどんなことばも信じるが、賢い者は自分の歩みを慎重に守る」と教えます。また新約聖書のテサロニケへの第一の手紙5章21節は「すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい」と命じます。現代ではSNSやニュースで誤情報が溢れ、キリスト教を中傷する噂も少なくありません。噂に直面したら、聖書の真理と照らし合わせ、祈りつつ吟味しなければすぐに心を支配してしまうでしょう。「この情報はキリストの愛と一致するか? 神の栄光を高めるか」と自問すれば、火のない煙は消えます。聖霊の導きと神の言葉は偽りから私たちを守るからです。
噂は火のない所に煙を立て真理を曇らせます。しかしキリストには「非のない所」が存在します。ヘブル人への手紙4章15節にはイエスを「罪を犯さなかった」大祭司と呼び、ペトロの第一の手紙2章22節は「彼は罪を犯さず、その口には偽りがなかった」と証しします。キリストの完全な義は、兵士たちの噂を無力化し、復活の真理を輝かせました。現代の誤情報、即ち「キリスト教は現代に合わない」「教会は金儲けの道具」という誤った情報もこの「非のない所」を汚すことはできません。キリストの十字架と復活は、どんな偽りにも打ち勝つ神の愛の証です。
「非のない所」に立つ信仰は、私たちに二つの実りを与えます。ひとつは噂に動じない確信です。ローマ人への手紙8章1節は「キリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない」と約束します。キリストの義に信頼するなら、どんな偽りの声も私たちの救いを奪えません。もうひとつはキリストの愛を世に証しする使命です。イエスは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と命じます。キリストの「非のない所」から流れる愛を言葉と行いで示せば噂の煙は消え、十字架の光が人々の心を照らします。たとえば困っている人に手を差し伸べ敵を赦す姿は、どんな中傷よりも力強くキリストの真理を証しするのです。
噂は火のない所に煙を立て、「非のない所」であるキリストの十字架を曇らせます。しかしキリストの「非のない所」はどんな偽りにも打ち勝ち、永遠の命の希望を与えます。兵士たちの愚かな噂は復活の事実を消せず、現代の誤情報も神の愛を無効にできません。私たちに求められているのは、噂を広める愚かさを避け、噂に惑わされず、キリストの真理に立つことです。聖書の言葉に根ざし、教会の交わりで支え合い、愛の行動で福音を証ししましょう。「主は真実な唇を喜ばれるが、偽りを語る者は忌み嫌われる」という教えは今も私たちの中で生きるのです。使徒パウロも悪意に染まった噂によって多くの苦しみを受けてきましたが、「私はキリストとその十字架の他に何も知るまい」という言葉を残しています。この言葉を胸に噂の煙を払い、キリストの光を輝かせましょう。キリストの復活は本当であり、その真理は永遠に揺らぎません。この真理に立ち、世にキリストの愛を宣べ伝える者として歩んでいきましょう。