「神の子 死者の中から復活する」ヨハネによる福音書20:1~18

深谷教会復活日礼拝(復活節第1主日)2025年4月20日
司会:岡嵜燿子姉
聖書:ヨハネによる福音書20章1~18節
奉唱:「イースターの朝には」聖歌隊
説教:「神の子 死者の中から復活する」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-317,333
奏楽:野田治三郎兄

   説教題:「神の子 死者の中から復活する《最古のチート能力者》」ヨハネ福音書20章1~18節   佐藤嘉哉牧師

 皆さん、イースターおめでとうございます! 今日、私たちはイエス・キリストの復活を喜び祝うために集まりました。この特別な日に、ちょっとユニークな視点から聖書のメッセージを一緒に考えてみたいと思います。説教の題は「神の子 死者の中から復活する《最古のチート能力者》」。少し驚くようなタイトルかもしれませんね。「チート能力者」という言葉、最近のアニメやゲームでよく用いられる言葉です。普通の人が持っていない、圧倒的な力や特別な能力を持つ人物の事を「チート能力者」と呼びます。たとえば、どんな敵も一撃で倒したり、時間を操ったり、死んでも生き返ったりするような力です。でも、実はこの「チート能力」の元祖は、イエス・キリストなのではないかと私は思うのです。なぜなら、イエスは死そのものを打ち破り、墓から復活されたからです。これは、どんなアニメの主人公も超える、まさに究極の「チート能力」です。
 今日の聖書箇所ヨハネによる福音書20章1節から18節には、イエスの復活の物語が鮮やかに描かれています。この出来事を通して、復活の主の力がどれほど大きく、私たちの人生にどのように関わるのかを、老若男女、誰にでも分かりやすくお話ししたいと思います。復活はただの昔話ではありません。それは今、私たちの生活を変える力を持っています。それでは、さっそくこの物語に入っていきましょう。
 週の初めの日の朝早く、マグダラのマリアがイエスの墓を訪れる場面から始まります。マリアはイエスを深く愛し、イエスに従ってきた女性でした。しかし、イエスが十字架で死に、彼女の心は深い悲しみでいっぱいだったでしょう。墓に行ったのは、イエスの遺体に香料を塗るため、あるいはただイエスに少しでも近づきたかったからかもしれません。ところが、墓に着いた彼女は驚くべき光景を目にします。墓をふさいでいた大きな石が取り除かれ、墓の中は空っぽだったのです。マリアは慌ててペトロとおそらくヨハネであろう、もう一人の弟子に知らせます。「主が墓から取り去られた! どこに置かれたのか分からない!」。彼女の声には、混乱と絶望が響いています。この時点で、マリアはまだ復活を信じていません。彼女にとって、空っぽの墓は「誰かがイエスの体を盗んだ」という最悪のシナリオを意味していました。
私たちも、人生の中で「空っぽの墓」のような瞬間を経験することがあります。期待していたことが崩れ、希望が消え、混乱と悲しみに襲われる時です。仕事での失敗、愛する人の喪失、病気の宣告……そんな時、私たちはマリアのようにつぶやくかもしれません。「どこに行ってしまったの? もう終わりなの?」 しかし、ここで今日の出来事は終わりません。空っぽの墓は絶望の印ではなく、希望の始まりだったのです。なぜなら、イエスは死に打ち勝ち復活されたからです。この「チート能力」すなわち死を打ち破る力は、どんな絶望も希望に変える力を持っています。
 マリアの知らせを聞いてペトロともう一人の弟子が墓に走ります。二人は競うように走り、若いヨハネが先に墓に着きます。彼は墓の中をのぞき、亜麻布が置かれているのを見ますが、中には入りません。やがてペトロが到着し、彼は大胆にも墓の中に入ります。そこで、遺体を包んでいた亜麻布と、頭を覆っていた布が別々に置かれているのを見ます。この場面、ちょっと不思議ですよね。もし誰かがイエスの体を盗んだのなら、なぜ布を丁寧に置いてあるのでしょうか。この細かい描写は、復活が本物であることを示しています。イエスは物理的に復活し、墓から出て行かれたのです。ヨハネも墓に入り、「見て、信じた」と聖書は記します。ただし、彼らの信仰はまだ完全ではありませんでした。「イエスが死者の中から復活しなければならないという聖書の言葉を、まだ理解していなかった」とあります。
 この弟子たちの姿は、私たちに似ています。私たちは時に、復活の事実を「見る」けれども、完全に理解したり信じたりするのが難しいことがあります。「本当にイエスは復活したの?」「それが私の人生とどう関係するの?」と疑問に思うかもしれません。しかし、復活の力は私たちが完全に理解する前から働いています。弟子たちのように、まず「見て」、一歩踏み出すことが大切です。復活の主は私たちが信じるのを待って、そっと導いてくださいます。
 復活の出来事はここでクライマックスを迎えます。マリアが復活したイエスと出会う場面です。マリアは墓の外で泣いていました。彼女の心はまだ悲しみでいっぱい。そこに二人の天使が現れ「なぜ泣いているのか」と尋ねますが、マリアの心は変わりません。彼女は振り返り、イエスが立っているのを見ますが、それがイエスだと気づきません。イエスは「なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」と優しく尋ねます。マリアはイエスを庭師だと思い、「主の遺体をどこに持って行ったのか教えてください」と懇願します。すると、イエスは一言、「マリア」と呼びかけます。この瞬間にすべてが変わります。マリアは「ラボニ!(先生!)」と叫びイエスだと気づきます。イエスの声、彼女の名前を呼ぶその響きが、彼女の心を突き動かしたのです。イエスは彼女を見捨てずにそばにいてくださった。復活の主は泣いているマリアを見つけ、名前を呼んでくださったのです。
 この場面は復活の力がどれほど個人的で、私たちに近いかを教えてくれます。イエスは「チート能力者」としてただ死を打ち破っただけでなく、一人ひとりの心に寄り添い名前を呼んでくださる方です。どんなに悲しみに沈んでいても、どんなに希望を失っていても、イエスはあなたの名前を呼び、「私はここにいるよ」と語りかけてくださいます。マリアはイエスにしがみつこうとしますが、イエスは「私にすがりつくのはやめなさい」と言います。これは冷たい言葉ではなく、新しい関係の始まりを示しています。イエスはこれから天に昇り、聖霊を通してすべての信じる者にいつも共にいる存在となるのです。マリアはイエスの指示に従い、弟子たちに「私は主を見ました!」と喜びの知らせを伝えに行きます。彼女は、復活の証人として最初の伝道者となったのです。
 さて、この聖書のことばから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。イエス・キリストの復活は、ただの歴史的事件ではありません。それは今、私たちの人生を変える力を持っています。イエスの「チート能力」…死を打ち破る力は、どんな状況でも私たちを支え、希望を与えてくれます。まず復活の力は絶望の墓を希望に変えます。マグダラのマリアにとって空っぽの墓は絶望の象徴でした。しかしそこに復活の主が現れ、彼女の涙を喜びに変えました。私たちの人生にも「空っぽの墓」のような瞬間があります。失業、病気、家族の問題、孤独……。しかし復活のイエスはそんな場所にこそ現れ、希望を与えてくださいます。「私は生きている」とイエスは語ります。この言葉を信じるとき、私たちの絶望は希望に変わります。
 次に、復活の力は名前を呼ぶ愛の力です。イエスがマリアの名前を呼んだように、復活の主は私たち一人ひとりの名前を知り、愛してくださいます。あなたがどんな状況にいても、イエスは「私はあなたを見ているよ」と語りかけてくださいます。学校でいじめられている子ども、仕事で疲れ果てた大人、老後の不安を抱えるご高齢の方々。誰一人として見過ごされません。復活のイエスは全ての人のそばにいて、名前を呼んでくださいます。この愛を受け取るとき、私たちは新しい力を受け立ち上がることができます。
 さらに復活の力は私たちに証人としての使命を与えます。マリアは復活のイエスに出会い、弟子たちにその喜びを伝えました。私たちも復活の主に出会ったなら、その喜びを周りに分かち合う使命が与えられています。それは難しいことではありません。あなたの言葉や笑顔、親切な行いを通して「イエスは生きている」というメッセージを伝えることができます。復活の力は、私たちを「証人」として世に遣わし希望の光を広げるのです。
 皆さん、イエス・キリストは死を打ち破り復活された「最古にして最も大きな力を持つチート能力者」です。その力は、どんな空想上の主人公も超える、圧倒的で愛に満ちた力です。イエスは空っぽの墓を希望に変え、私たちの名前を呼び、共に歩んでくださいます。そして私たちを復活の証人としてこの世に遣わしてくださいます。このイースター、復活の主イエスを心に迎えましょう。どんな絶望の中でもイエスはあなたを見つけ、名前を呼び、立ち上がらせてくださいます。そしてその喜びを周りの人に分かち合いましょう。「主は復活ハレルヤ!」 このメッセージを胸に、新しい一週間を力強く歩んでいきましょう。

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