深谷教会受難説第6主日礼拝(棕櫚の主日)2025年4月13日
司会:高橋和子姉
聖書:マタイによる福音書27章32~56節
説教:「十字架の重さ」
佐藤義也牧師
讃美歌:21-304,306
奏楽:小野智恵子姉
説教題:「十字架の重さ」 マタイ福音書27:32~56 佐藤嘉哉牧師
棕梠の主日に皆さんと共に礼拝をささげられることを感謝します。この日は、イエスが「ホサナ」の叫び声と共にエルサレムに入城された喜びの日です。しかし、その歓声から数日後、イエスは十字架の道を歩まれます。
今日、マタイ福音書27章32節から56節を通して、十字架の重さとその中に込められた神の愛を考えます。特に、クレネ人のシモンの葛藤、イエスご自身の思い、そして弟子たち—特にマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子の母マリア—の心に寄り添いながら、十字架が私たちに語るメッセージを探ります。
マタイ福音書27章32節にはこう記されています。「兵士たちは出て行く途中、シモンというクレネ人の男に出会ったので、イエスの十字架を無理やり背負わせた。」シモンは北アフリカのクレネ出身で、過越祭のためにエルサレムを訪れていたのでしょう。マルコ福音書15章21節では「アレクサンドロとルフォスの父」とあり、彼の家族が後に信仰共同体で知られていたことがうかがえます。
シモンは祭りの喧騒の中、突然ローマ兵に捕まり、イエスの十字架を背負わされます。家族との時間を楽しみにしていたかもしれない彼にとって、これは理不尽な出来事でした。十字架は重い木材であるだけでなく、呪いと恥辱の象徴です。シモンの心には恐怖、屈辱、怒りが渦巻いたでしょう。「なぜ私が」「この男は何者だ」と。ローマ兵の暴力的な命令に従うしかなく、彼は重荷を肩に担ぎます。肉体的な重さ以上に、見知らぬ死刑囚の運命に巻き込まれた精神的負担が彼を押しつぶしそうだったはずです。
イエスの思いはどうだったでしょうか。鞭打たれ、血を流し、力尽きかけていたイエスにとって、シモンが十字架を背負う姿は肉体的な休息をもたらしたかもしれません。しかし、イエスの心は人類の罪を贖う使命に集中していました。ヨハネ福音書10章11節で「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われたように、イエスはシモンの葛藤を見ながらも、彼を救いの物語に招き入れる神の計画を知っておられたでしょう。イエスはシモンに重荷を押し付けたのではなく、彼に十字架の意味を知る機会を与えたのです。
ゴルゴタの丘に着くと、イエスは十字架にかけられます。33節から44節では、兵士、通りがかった人々、宗教指導者、強盗たちがイエスを嘲ります。「神の子のくせに自分を救え」「神が愛しているなら助けるはずだ」と。シモンはこの場面を目撃したかもしれません。嘲笑の声の中、彼の心は揺れます。最初はただの死刑囚だと思っていたイエスが、なぜ反論せず、静かに耐えているのか。イエスの沈黙に、ただの人間を超えた尊厳を感じ始めます。シモンは、この男が背負う十字架が単なる刑罰ではない何かだと気づき始めたかもしれません。イエスの心は、嘲笑の中で人類の罪の深さを味わっていました。ルカ福音書23章34節で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られたように、イエスは嘲る者たちを愛し続けました。イザヤ書53章7節の「屠られる子羊のように、口を開かなかった」に従い、イエスは沈黙を守ります。それは弱さではなく、罪を贖う愛の決意でした。イエスはシモンの葛藤を見ながら、彼がこの十字架の意味を理解することを願われたでしょう。
このとき、弟子たちはどうだったでしょうか。マタイ福音書27章55節~56節には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子の母マリアが遠くから十字架を見つめていたとあります。彼女たちはイエスに従い、ガリラヤから共に歩んできた女性たちです。マグダラのマリアは、かつてイエスによって悪霊から解放され(ルカ8:2)、深い感謝と愛でイエスに仕えました。彼女にとって、イエスは救い主であり、人生の希望でした。しかし、十字架上のイエスを見て、彼女の心は絶望と混乱で裂けそうだったでしょう。「なぜ救い主がこんな目に」「私が何かできたのではないか」と。ヤコブとヨセフの母マリアもまた、イエスに深い信頼を寄せていました。彼女はイエスの母マリアと区別される人物ですが、息子たちと共にイエスに従った忠実な弟子でした。十字架を遠くから見つめながら、彼女は息子たちの未来を案じ、師であるイエスの苦しみに涙したでしょう。「この苦しみは無意味ではないはず」と信じようとしたものの、心は揺れ動きます。
ゼベダイの子の母マリアは、先週説教で話したイエスに息子たちの栄光を願った母親でした。彼女はイエスが王として栄光を受ける日を夢見たかもしれません。しかし、十字架の現実は彼女の期待を打ち砕きます。「これが神の子の道なのか」と、彼女の信仰は試されました。それでも、彼女たちは逃げずに十字架を見つめ続けました。彼女たちの葛藤は、愛と信頼が試される中で生まれる痛みでした。
主の受難は45節から50節で頂点に達します。正午から地は暗くなり、イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれます。詩編22篇を引用したこの叫びは、イエスが罪の闇と神の裁きを完全に引き受けられた瞬間を示します。神の子であるイエスでさえ、孤立の極みを経験されました。「わたしは神に捨てられたのか」と自らを疑いつつも、その声の深さに何か大きなものを感じます。十字架が単なる処刑ではなく、人類のための出来事だと気づき始めたかもしれません。イエスの思いは、この叫びの中に凝縮されているように思います。ゲツセマネで「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、み心のままに」と祈られたように、主イエスは神の意志に従いました。十字架の苦しみは、愛の道であったのです。主イエスは、シモン、弟子たち、そして未来の私たちのために、この闇を引き受けられたのです。イエスの叫びは絶望ではなく、救いを成し遂げるための叫びでした。
マグダラのマリアはこの叫びを聞き、胸を締め付けられたでしょう。イエスが彼女を救ってくれた日の記憶がよみがえります。「あの愛がここで終わるはずはない」と信じたいのに、目の前の現実は彼女を打ちのめします。ヤコブとヨセフの母マリアは、母としての痛みで涙します。「神の子がなぜ」と問いながらも、主イエスの言葉を思い出し希望をつなごうとします。ゼベダイの子の母マリアは、かつての自分の願いを悔いながら、イエスの苦しみが神の計画の一部だと信じようとします。彼女たちの葛藤は、愛する者を失う恐怖と、なお神に信頼する信仰の間で揺れる姿でした。
イエスが息を引き取られた時、聖所の幕が裂け、地震が起こり、死者がよみがえったと書かれています。これらは、イエスの死が天地を揺るがす救いの出来事であることを示します。シモンはこの光景を見て恐怖と驚きの中で、主イエスがただ者ではないことを確信したでしょう。葛藤から始まった彼の旅は信仰の芽生えへと変わりました。主イエスの復活の後、そのシモンは使徒として世界宣教の業に加わったとされています。
主イエスの心は死の瞬間にも愛に満ちていました。ヨハネ福音書19章30節で「成し遂げられた」と言われたように、救いの業を完成させました。主イエスは、十字架を共に担ったシモンや弟子たちがこの十字架の意味を理解し、神の愛に立ち返ることを願われたでしょう。主イエスの死は罪の赦しと新しい命の門を開くものでした。
マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子の母マリアは、この超自然的な出来事を遠くから見つめます。マグダラのマリアは聖所の幕が裂けたのを見て、イエスの死が神の救いの始まりだと感じ始めます。ヤコブとヨセフの母マリアは、地震の中で「神が働いておられる」と希望を見出します。ゼベダイの子の母マリアは、自分の誤った期待を悔い、イエスの十字架が真の栄光だと悟ります。彼女たちの葛藤は、十字架の出来事を通して信仰へと変えられていきました。
54節では、百人隊長と兵士たちが「この人は本当に神の子だった」と告白します。シモンも、この体験を通してイエスの真実を悟ったかもしれません。55節と56節の女性たちの忠実な姿勢は、どんな苦難の中でもイエスに目を注ぐ信仰を教えてくれます。
棕梠の主日に十字架の重さを思います。シモンは強制的に十字架を背負い、葛藤の中でイエスの真実に出会いました。マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子の母マリアは、愛と絶望の間で揺れながら、イエスの十字架に希望を見出しました。主イエスはすべての人の罪のために、愛と使命をもって十字架を背負われました。私たちの人生にも重荷があります。しかし主イエスはそれらを共に担い、希望を与えてくださいます。十字架の重さは、罪の重さであり、愛の深さです。この棕梠の主日にイエスの十字架へ目を注ぎ、その愛に応答して歩みましょう。