深谷教会受難節第5主日礼拝2025年4っ月6日
司会:野田治三郎兄
聖書:マタイによる福音書20章20~28節
説教:「誰が偉い?」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-303,469
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「誰が偉い?」 マタイ20:20~28 佐藤嘉哉牧師
マタイによる福音書20章20節から28節は、私たちに「偉さ」や「権威」について深く考えさせる場面を描いています。この部分では、ある母親が主イエスに近づき、自分の二人の息子が特別な地位に就くことを願います。彼女は息子たちを主イエスのそばに置いてほしいと頼みますが、この願いには、母親としての愛情だけでなく、地位や名誉への強い欲求が隠れているようにも感じられます。彼女の行動は、当時の社会で地位や名誉がどれほど重要視されていたかを物語っています。人々は新しい王国が到来すれば、その中で重要な役割を担うことが最高の栄誉だと考えていました。この母親も自分の息子たちがそのような栄光に浴することを夢見ていたのでしょう。彼女の願いは、ある意味で純粋な親心から出たものかもしれませんが、同時に人間的な野心が混じっているようにも見えます。
しかし、主イエスは彼女の願いにすぐには応じません。まず彼女が何を求めているのかを本当に理解しているのかと問いかけます。そして、息子たちにも自分がこれから経験する苦しみを共有できるかと尋ねます。彼らは「できる」と答えますがその言葉にはどこか軽さがあり、本当の意味を分かっていない様子がうかがえます。主イエスは最終的に地位を与えるのは自分ではなく、神の意志だと告げます。このやり取りを聞いていた他の仲間たちは、二人の息子に対して腹を立てます。彼らの怒りは自分たちもまた地位や優越感を求めていたことを示しています。仲間たちはみな、心のどこかで「誰が偉いのか」という競争心を抱いていたのでしょう。彼らの反応は、私たちにも馴染み深い感情かもしれません。誰かが特別扱いされると、つい不公平だと感じてしまう――そんな気持ちは、現代でもよく見られるものです。
主イエスはこの状況を静かに見つめ、仲間たちに新しい視点を与える言葉をかけます。彼は、世の中の支配者たちは権力を使って人々を抑えつけ、偉さを誇示すると言います。しかし、自分の仲間たちにはそうではなく、仕える者になるようにと教えます。そして、自分がこの世に来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためだと伝えます。この教えは、当時の常識を覆すものでした。普通なら、偉い人は上に立ち、人々を見下ろす存在だと考えられていました。地位が高いほど尊敬され、権力が大きいほど影響力を持つ――それが当たり前とされていたのです。しかし、主イエスは、偉さとは他人に仕えること、つまり愛と犠牲によって示されると説きます。この考え方は、当時の人々にとって驚くべきものであり、現代の私たちにとっても新鮮に響くかもしれません。
主イエス自身がその生き方を体現していました。彼は、神の子としての権威を持ちながらも、人間としてこの世に来て、最後には多くの人のために命を捧げました。それは、私たちを救い、神とのつながりを取り戻すためでした。彼の「偉さ」は、権力や地位ではなく、他者への奉仕によって示されたのです。この話は、現代に生きる私たちにも強く響いてきます。私たちは日常の中で、他人と自分を比べてしまう瞬間があります。仕事での昇進や評価、学校での成績、家庭やコミュニティでの役割――つい、「誰が偉いのか」「誰が優れているのか」と考えてしまうのです。例えば、職場で同僚が昇進したとき、自分の努力が報われていないように感じたり、友人が成功を収めた話を聞くと、少し心がざわついたりすることがあるかもしれません。
母親が息子たちのために地位を求めた気持ちは、私たちの中にも潜んでいます。自分や家族、愛する人のために「もっと認められたい」「もっと高いところにいたい」と願うことは、自然な感情なのかもしれません。誰だって、自分の価値を認められたいと思うし、大切な人が幸せになることを願うものです。しかし、主イエスはその願いを超えて、私たちに別の道を示します。それは、地位や名誉を追い求めるのではなく、他者に仕える生き方です。神の目から見れば、誰かが誰かより優れているという考えは意味を成さないのです。私たちはみな、同じように愛され、同じように尊い存在として扱われているのです。この視点に立つと、私たちが普段追い求めているものが、実はそれほど重要ではないのかもしれないと思えてきます。
仲間たちが二人の息子に腹を立てたように、私たちも他人の成功や地位に嫉妬してしまうことがあります。誰かが褒められたり、目立ったりすると、心の中でざわつきを感じる瞬間があるかもしれません。SNSで誰かの華やかな投稿を見たり、知人が新しい仕事を始めた話を聞いたりすると、自分の人生が物足りなく感じられることもあるでしょう。しかし、主イエスはそのような気持ちを捨てて、互いに仕え合う関係を築くようにと呼びかけます。誰かが成功したとき、それを妬むのではなく喜び、誰かが困っているときには自分の都合を後回しにして助ける――そんな生き方が求められているのです。主イエスが仲間たちに伝えた言葉の中には、彼自身の生き方が込められています。彼は、仕えられる側ではなく、仕える側に立つことを選びました。そして、その姿勢は、私たちがどう生きるべきかの手本でもあります。
私たちはつい、自分がどれだけ認められるか、どれだけ上に立てるかに気を取られがちです。しかし、主イエスは私たちに、他者のために何かできるかを考えるように促します。それは、大きな犠牲を払うことだけではなく、日常の中での小さな親切や思いやりにもつながります。例えば、忙しい日に同僚の手伝いをしたり、疲れているときに家族のために少し時間を割いたりする――そんな小さな行動が、主イエスの教えに近づく一歩になるのです。偉さとは、目に見える地位や権力ではなく、心の姿勢にあるのだと気づかされます。誰かに手を差し伸べることで得られる喜びは、どんな肩書きや賞賛よりも深いものかもしれません。
「誰が偉いのか」という問いにどう答えるべきでしょうか。この世の中では、地位や権力を持っている人が偉いとされがちです。お金や名声、影響力がある人が注目されます。テレビやネットでは、成功者や有名人が取り上げられ、彼らが「偉い人」として称賛されるのをよく目にします。しかし、主イエスの視点では、偉さは全く別の形で現れます。それは、他者に尽くす心であり、愛を持って接する姿勢です。そして、さらに一歩進んで考えると、神の前では誰もが等しい存在だということに気づかされます。私たちの持つ肩書きや財産、能力は、神の目から見れば何の違いも生みません。私たちはみな、同じように神の愛によって造られ、同じように尊い存在として扱われているのです。
この世に生きていると、競争や比較は避けられない部分があります。誰かと自分を比べたり、自分の価値を他人との関係で測ったりしてしまう瞬間は、誰にでもあるでしょう。例えば、友人が新しい家を買った話を聞くと、自分の生活が物足りなく感じたり、SNSで誰かの旅行写真を見ると、自分が何もしていないように思えたりすることがあります。しかし、主イエスが示した道は、そのような競争を超えたところにあります。それは、他者に仕え、愛し合う道です。私たちが神の恵みに目を向けるとき、「誰が偉いか」という問いは自然と薄れていきます。なぜなら、神のもとでは、私たちはみな等しく愛されているからです。
だから、私たちはこう考えるべきなのかもしれません。地位や名誉を追い求めるよりも、目の前の人にどう接するか。自分の力をどう使うか。日々の暮らしの中で、神の愛に支えられながら生きていくことが大切だと気づかされます。誰かが偉いとか、誰かが劣っているとか、そんなことは神の前では全く価値がないのです。私たちはみな、同じように神の恵みによって生かされている存在です。たとえば、朝起きて新しい一日を迎えられること、健康でいられること、家族や友人と過ごせること――これらはすべて、神の恵みによるものです。それに気づくと、「誰が偉いか」という問いがどれほど小さなものに思えるか分かります。
この物語から学ぶべきことはシンプルです。私たちは、誰かと比べることなく、ただ神の愛に信頼して生きていけばいいのです。誰かが上に立つ必要も、誰かが下にいる必要もありません。神の前では、みな平等です。だからこそ、私たちは日々、神の恵みに感謝しながら、他者に仕え、愛を持って歩んでいきましょう。「誰が偉いか」などという問いを超えて、神の愛の中で生きる喜びを見出していきたいものです。そして、その喜びは、地位や名誉では決して得られない、心の平和と深い満足感をもたらしてくれるのです。毎朝目覚めるたびに、神の恵みに感謝し、誰かを少しでも支えられる生き方をしていけたら――それが、私たちに与えられた道なのかもしれません。神の恵みによって、日々を新しく、喜びと共に生きていきましょう。