「イエスって誰?」マタイによる福音書16:13~28

深谷教会受難背う第3主日礼拝2025年3月23日
司会:斎藤綾子姉
聖書:マタイによる福音書16章13~28節
説教:「イエスって誰?」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-411
奏楽:野田治三郎兄

   説教題:「イエスって誰?」 マタイ福音書16:13~28   佐藤嘉哉牧師

 皆さん、おはようございます。今日、私たちはマタイによる福音書16章13節から20節に目を向けます。この箇所は、イエスが弟子たちに投げかけた深い問いから始まります。「人々は人の子を誰だと言っているか」。そして、さらに核心的な質問、「それでは、あなたがたは私を誰と言うか」。この問いに対して、ペテロが立ち上がり、こう告白しました。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。イエスはこの答えを祝福し、「この岩の上に私の教会を建てる」と約束されました。この言葉は、キリスト教信仰の土台として輝き、伝道の場で力強く響く模範的な信仰告白です。
 でも、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。この美しい言葉を、私たちがただ暗記して、理解も心もないまま口にしたらどうなるでしょうか。あるいは、それを盲目的に繰り返して、人々に押し付けるようなことをしてしまったらどうなるでしょう。今日は、ペテロの模範的回答を鵜呑みにすることの危険性を聖書から学び、イエスを本当に知る信仰へと進む道を考えたいと思います。私たち一人一人が、イエスの問いにどう答えるか。その旅路を共に歩みましょう。
 まず、ペテロの告白をもう一度見てみましょう。イエスが「あなたがたは私を誰と言うか」と尋ねたとき、ペテロは即座に答えました。「あなたはキリスト、生ける神の子です」。この言葉は、まさに信仰の頂点とも言える告白です。「キリスト」とは、旧約聖書で預言されていた救い主、メシアを指します。そして「生ける神の子」とは、イエスが単なる人間を超え、神ご自身と一つであることを示す深い宣言です。イエスはこれを聞いて喜ばれました。「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」。
 この瞬間、ペテロは神からの啓示を受けたのです。それは人間の知恵や努力ではたどり着けない、真実の光でした。私たちもこの言葉を聞くとき心が震えます。伝道の場でこの告白を語れば、人々の心に響き、信仰を呼び起こす力があります。でも、ここで一つの疑問が浮かびます。ペテロはこの言葉を言ったとき、本当にその意味をすべて理解していたのでしょうか。実は、この輝かしい告白のすぐ後、ペテロの限界が露わになります。イエスが十字架の苦難と復活を預言すると、ペテロは「主よ、そんなことがあってはなりません」と反対し、主イエスから厳しく叱責されるのです。わたしがバーテンダーとしてアルバイトをしていたころにあった話をしたいと思います。ある日ドイツからの観光客が来店しました。わたしは将来牧師になりたいと思っているんだ、と言うととても興味を持ってくれたようで、いろいろ話をしていると、日本のキリスト教について聞きたいと言われました。日本には1%くらいしかクリスチャンはいないこと。日本人はキリスト教のだけじゃなく宗教自体に無関心であるということ。信仰を持つということは自分だけの問題でなく家族にまで影響すること。クリスチャンを物凄く神聖なものとして捉え、特別視すること。いろいろと自分の考えをつたない英語で伝えました。するとそれを聞いていた彼は「じゃあノンクリスチャンにイエスって誰って聞かれたらどう答えるの?」と質問され、「彼は神の子で、わたしたちの救い主だ」と答えました。すると「それだけじゃあ、気難しい日本の人たちにキリスト教を説明することは難しいだろうね」と言われました。これはわたしの命題となり、今でもこの講壇に立つ時、その問いが頭から離れません。わたしはペテロの告白の通りに答えました。しかしそれで本当に良かったのかと今でも考えます。
 ペテロは模範的な言葉を口にしましたが、その深い意味をまだつかんでいませんでした。彼の心には、イエスが栄光の王として君臨するイメージがあったのかもしれません。十字架の道を受け入れる準備ができていなかったのです。ここに、私たちへの戒めがあります。模範的な言葉を覚えるだけでは不十分です。それが心に根付いていないなら、ただの空虚な音になってしまいます。盲目的に「イエスはキリストです」と繰り返す人は、イエスの本当の姿を見失う危険があるのです。
 では、なぜ盲目的に模範的回答を繰り返すことが危険なのでしょうか。聖書の他の箇所からも、その答えが見えてきます。例えば、当時のファリサイ派や律法学者たちを思い出してください。彼らは聖書の言葉を熟知し、人々に教える立場にいました。モーセの律法を一字一句暗記し、それを厳格に守ることを誇りとしていました。しかしイエスが現れたとき、彼らはどうしたでしょう。イエスを認めずに敵対し、最終的には十字架に架ける計画を立てました。なぜでしょうか。彼らにとって神の言葉や知識は頭の中にあるだけで、心に届いていなかったからです。言葉を盲目的に守ることに固執し、神の真の御心を見失っていたのです。
 伝道する私たちにも同じ危険が潜んでいます。「イエスはキリスト、生ける神の子です」という言葉は確かに正しい。でも、それをただのスローガンや決まり文句にしてしまえば、イエスを自分の都合のいい道具に変えることになりかねません。伝道は人々をイエスに導くためのものです。しかし、もし私たちが言葉だけを振りかざし、自分の信仰や生き方でそれを示せなかったらどうでしょう。人々はイエスを見るのではなく、私たちの空虚な声しか聞こえなくなります。盲目的な伝道はイエスを隠してしまうのです。
 さらに考えてみましょう。イエスがペテロに「天の父が啓示した」と言われたのは、この告白が神からの賜物だったからです。しかし、私たちがその言葉を神の導きなしに機械的に繰り返すなら、それは神の啓示を充分に伝えきれていないかもしれません。伝道は神の働きであり、私たちの力だけでできるものではないからです。言葉を暗唱する前に、自分に問いたいと思います。「私はこの言葉をどれだけ信じているか」「私の人生で主イエスこそキリストであることを示しているか」。盲目的な伝道は、人々を救うどころか、かえって遠ざけてしまう危険があるのです。
 ペテロの物語はここで終わりません。彼の告白は模範的でしたが、その後の人生を見ると、彼の信仰が試練を通って成長したことがわかります。イエスが捕らえられた夜、ペテロは恐れからイエスを三度も否定しました。「私はあの男を知らない」と叫んだとき、彼の模範的な言葉はどこに行ったのでしょう。でも、イエスはそのペテロを見捨てませんでした。復活後、イエスはペテロと向き合い、「私の羊を飼いなさい」と使命を託されました。ペテロが本当に「キリスト」を知ったのは、この長い旅路の果てだったのです。
 このペテロの姿は私たちに大切なことを教えます。イエスを「キリスト」と告白することは、スタートラインに過ぎないということ。それを自分の人生で試され、悩み、祈りの中でつかむとき、初めてその言葉に命が宿ります。盲目的な伝道者は、この試練を避け、言葉に頼ろうとします。しかし主イエスは、私たちに頭ではなく心で知ることを求めておられます。失敗してもいい。疑問を持ってもいい。大切なのは、イエスとの関係を深めていくことです。ペテロのように、私たちも試練を通して成長し、イエスが誰かを自分の言葉で語れるようになるのです。
 皆さん、「イエスとは誰か」へのペテロの模範的回答は、私たちに道を示します。しかし、それを盲目的に覚えて伝道することは、神の言葉を軽んじ、イエスの真実を曇らせる行為です。主イエスの言葉や聖書は暗記用の教科書ではありません。生きて私たちと関わり、私たちの心に語りかけるお方です。だからこのレントの時自分に問い直しましょう。「私は本当にイエスを知っているか」「この言葉を心から信じているか」。もしその答えが曖昧であったり、確信が持てなかったりすることがあっても自分を責めず、その中で主の赦しと愛を感じ取りましょう。聖書を開き、イエスが誰かを尋ねることで新たな道が示されるでしょう。イエスは私たちに、表面的な信仰ではなく、心からの応答を求めておられます。今週、その一歩を踏み出しましょう。イエスが誰かを知る旅路は、わたしたちの人生を変え、人々に真の希望を届けることとなることと信じて。

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