深谷教会受難節第2主日礼拝2025年3月16日
司会:佐藤嘉哉牧師
聖書:マタイによる福音書12章22~32節
説教:「敵は外にも内にも」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-510
奏楽:野田周平兄
説教題:「敵は外にも内にも」 マタイによる福音書12:22~32 佐藤嘉哉牧師
聖書というものは読んで字のごとく、聖なる書物です。それは間違いありません。何せ神と主イエス・キリストのことが書かれているのですから。しかし聖書をよく読んでみれば、聖いことばかりでなく人の恐ろしいほどの罪が書かれていることを知ります。宗教改革者マルチン・ルターは、聖書を読めば読むほど自分が罪の内にあり、その罪によって死んでしまうのではないかと、恐ろしくて仕方がなかったと語っています。ノイローゼになっていたのではないかとされています。聖書は人を慰め励ます言葉が沢山ありますが、一方で躓かせる言葉も出来事もあるのは事実です。
私たちが聖書を手に取って最初に読もうと思うのは、新約聖書の福音書でしょう。わたしも聖書の学びはマタイ福音書からでした。福音書はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つです。真正な福音書の他にも主イエスについて書いたものが沢山あります。特に有名なのは主イエスを裏切ったイスカリオテのユダによる福音書です。数多ある福音書の中からなぜこのマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つが正当な福音書に選ばれたのでしょうか。諸説ありますが、主イエス・キリストの捉え方がパウロの神学と共通していたからであるとされています。特にマルコによる福音書がマタイとルカ福音書の基礎となっており、キリスト像も共通している部分が沢山あります。この3つの福音書を「共観福音書」と呼ぶのはそれが理由です。しかしこの3つの福音書は共通する箇所が多いものの執筆された時代はそれぞれ違います。福音書記者マタイ・マルコ・ルカはそれぞれに仕える教会が抱える問題と向き合い、その中で主の福音を伝えるために福音書を書きました。つまりそれぞれの福音書にはそれぞれの時代の教会とキリスト者の姿が見えてくるのです。マタイによる福音書が成立したのは、エルサレム第2神殿が崩壊した後の混乱期とされています。この時代はイスラエルの人々にとって苦難の時代であり、ユダヤ教の内の一派であったキリスト教が分離する時でもありました。この時のキリスト共同体は内側にも外側にもキリストの福音を試そうとする人がおり、ファリサイ派や律法学者をその人たちに合わせようとしたのです。マタイによる福音書は他の福音書と比べて、ファリサイ派や律法学者と主イエスの対話と対立に重きを置いているのもそれが理由です。
今日の聖書の箇所は「ベルゼブル論争」と題され、聖書の中で難しい内容であるとされています。主イエスの癒しによって目が見えず口が利けない人から悪魔を追い出し、それを見ていた人々が驚いたということがこの論争の発端です。主イエスが生きていた時代は、師匠と弟子・主人と従者という上下の関係が重要視され、上の者の命令は絶対守らなければならないというルールがありました。ですからそれを見ていたファリサイ派の人々が「出て行けというイエスの命令に悪魔が従ったということは、彼こそ悪魔の親玉『ベルゼブル』なのだ」と言い出しました。主イエスはファリサイ派の人々が自分にやっかみを言っているということをすぐに理解し、このように答えました。「内部で争う国は自滅し、内輪で別れ争う町や家は立ちいかない。もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内輪で分かれ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出しているのなら、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」主イエスはこうして悪魔を退けるのは主の権能によるものだと主張したのは、聖書を読む私たちに希望と勇気を与えることでしょう。しかしここには「悪魔」の存在よりも複雑で大きく厄介な問題が見え隠れしています。それは内部での分裂することです。マタイのいたキリスト共同体は時代背景も重なり、内側でも外側でも混乱と対立が起きていました。これはマタイの時代だけではなく、パウロの記したコリントの信徒への手紙にも内輪もめ、内部分裂が起きていました。その理由はそれぞれの教会の置かれた時代や環境が異なるので一概には言えませんが、初代教会のほとんどがこうした問題を抱えていました。今でこそ教会には聖書という揺るぎない聖典がありますが、当時はそうした聖典はありませんでしたから、それぞれがそれぞれに自分の神・主イエス像を作っていたのですから内輪もめが起きてしまうのも仕方がありません。事実内輪もめによって滅んだ国も沢山あります。内輪もめこそ大きな罪であり、そのような分裂が同じ民族や宗教で起きてしまわないように、神は旧約において「律法」を、新約において「聖餐」を与えてくださいました。この分裂こそ聖書全体における大きな課題であるのです。しかしマタイの教会やコリント教会の悲惨な背景がなくとも、人が複数人集まれば対立や分裂が起きることは、残念ながらあります。聖書という揺るぎない聖典があってもなお、教会内部で分裂することが多々あります。その結果教会員同士が分かれてそれぞれの教会を作ったこともあります。「互いに愛し合いなさい、互いに仕え合いなさい、互いに重荷を担い合いなさい、互いを愛し合いなさい」という主のことばが身に沁みます。それと同時に内輪もめの中にわたしたちがおかれていないだろうかと振り返る時としたいと思います。
主イエスは内輪もめのただなかにある人々にこう言います。「人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。」ここに最大の疑問が生まれます。聖書においては罪の内にあることを最大の悪と考えており、その状態に陥らないようにと願い信仰を歩んでいる人がいるでしょう。しかしそのような状態ではない、まさに罪の内にいる人の行いがすべて赦されるとあるのだから、天地がひっくり返ったような思いになるでしょう。じゃあ律法は意味がないのか、法律に意味がないのか、と考えてしまいます。躓きになる言葉です。これに対応する形として、主は「聖霊を汚す言葉を言ったり、言い逆らったりする者は赦されない」と言います。これには三位一体論と十字架論が関わってきており、結論を複雑にさせています。かなり専門的で神学的な内容になってくるので難しいことです。
突然聖霊という言葉が出てきたのは「悪霊」と対立する内容にしたかったからも考えられますが、唐突すぎて何を言っているのか理解しにくいと思います。「聖霊」とは主イエス・キリストが十字架で死に3日後に復活されて、天に昇った後に与えられた神の力です。この主イエスの十字架での死と復活による聖霊によらなければ、人は神と真につながることができません。主イエスの贖いがなければわたしたちは神を知らず、罪の内に放り出されたままです。しかし主イエスの十字架での贖いによってわたしたちは神とつながり、聖霊によって救いが与えられました。しかしそのことを知っていながら自分にばかり気を取られ、他人の行いばかりが気になってしまうならば、内輪もめに陥ってしまいます。聖霊を冒涜する者、今わたしたちに働かれている主イエスと神の御業を冒涜することこそ最大の罪であると主イエスは語っています。わたしたちはどうかと思いめぐらせたいと思います。わたしたちはただ神の言葉を信じる者として歩みたいと思います。その神の言葉が自分を責めているように感じることがあっても、それが神のみ言葉であると信じたいと思います。敵は外にも内にもいます。その状況の中で自分自身の内側で内輪もめを起こし、信仰を投げ出してしまわぬよう、聖霊に心を向けてレントの時を歩みたいと思います。