「神の子 対 悪魔」マタイによる福音書4:1~11

深谷教会受難節第1主日礼拝2025年3月9日
司会:西岡義治兄
讃美歌:21-474
頌栄:28番
聖書:マタイによる福音書4章1~11節
説教:「神の子 対 悪魔」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-284
奏楽:小野千恵子姉

    説教題:「神の子 対 悪魔」 マタイ福音書4:1~11   佐藤嘉哉牧師

 世の中には正義と悪という関係性がいつも取り沙汰されています。映画やドラマ等ではこの正義と悪、優しい人とそうではない人が明確に登場し、人々はその人物に心を奪われます。そして人々は正義の成し遂げた偉業に驚き、称賛します。わたしは幼少期アニメや怪獣映画を観るたびに、正義の味方よりもバラエティ豊かに正義の味方を追い詰める悪役に心を奪われていました。アンパンマンでいえばバイキンマンですね。しかし現実的な話で言えば、この正義と悪の明確な関係性はありません。映画やドラマ・アニメなどの正義と悪は作者が「正義とはこのようなものだ」「悪とはこのようなものだ」と決めたうえで戦わせるものです。しかし世界における正義も悪も人によって変わります。「この人にとっては正義でも、この人からしたら悪だよね。」、その逆も然り。世の中はそうした不安定な状況の中にあります。具体的に言えば、関西のとある県知事のこと。彼と彼にかかわる人たちの最初の印象と今の印象は随分変わったでしょう。また先日行われたウクライナとアメリカの両国大統領の会談の様子など。近年こうした以前と今の情勢の変化、印象の劇的な変化が立て続けに起きています。その中でわたしたちは「自分の印象が本質ではない」ということを学びました。それと同時にこの世の中がどれほど複雑で、神の御国から遠く離れてしまったかを感じずにはいられません。
 本日の聖書箇所は悪魔から試みを受ける主イエス・キリストの姿が描かれています。主イエスは荒野で40日40夜断食をして空腹を覚えた際、悪魔が来て3つの試みが行われました。
 1つ目は「石をパンに変えてみよ」という物質的な欲求です。空腹を覚えられたというイエスの基本的な肉体的欲求に焦点を当てています。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と悪魔は言います。これに主は「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。」と聖書のことばによって退けました。
 2つ目は「神殿から飛び降りてみよ」と神の保護を試みます。これは「神があなたを守ると約束しているのだから、それを試してみよ」という誘惑です。悪魔は詩編91編を引用しています。しかしこれは文脈から切り離され誤った解釈がなされています。悪魔が試したかったのは主イエスにある神の保護だけでなく、その神の保護を当然のものとして考え、どう考えたって助かることのない無謀な行動をとらせようとすることです。これは「わたしは信仰があるから大丈夫」と言って、神ではなく自分を中心に置いてしまう人の弱い部分です。主イエスはこの試みに申命記のことばを引用して「あなたの神である主を試してはならない」と反論します。
 3つ目の誘惑は最も直接的なものでした。悪魔はイエスに世のすべての国々の栄華を見せて、「ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」と言います。これは言えば人類の救済への近道にもなる誘惑です。イエスは確かにこの世を支配する王となるために来られましたが、それは十字架の死と復活を通してであって、苦しみを避けてではありません。救いはその受難と十字架の死と復活がなければ成就しません。現代においてこの誘惑は「目的のために手段を選ばない」という考え方にも通じていると思います。良い結果の為なら悪とも手を組もうとする妥協への誘惑です。また神の方法ではなく世の方法で成功や影響力を求める誘惑でもあるのです。人は物理的な欲求が満たされたり、世の称賛を受けたりすると幸せを感じる生き物です。その味を知るとなかなか離れることができません。そしてその味を追い求めて自分を正当化し、他者を退けようとするのです。この試みが主イエスにとって最大の悪であり、強い言葉をもって主は悪魔を退けました。
 ここでわたしたちが注意しなければならないことがあります。主イエスは悪魔から誘惑に聖書のことばを用いて退けました。自分の考えはこうだと言っているのではなく、神の言葉によって立場や考えを述べました。つまりこの聖書箇所は悪魔に打ち勝った正義の味方主イエスという道徳的な話ではなく、神の子として神の言葉の意味を真に理解していたということです。聖書において、主イエスが正義であることに揺らぎはありません。なぜなら主イエスは神の子であるからです。そしてこの誘惑する悪魔の存在も、神が主イエスによる救いへの道に必要であるという思いから送ったのです。そもそも4章1節に「イエスは御霊によって荒野にみちびかれた。悪魔に試みられるためである。」と書いてあります。悪魔が主イエスと対になるのではなく、悪魔も神から遣わされた存在であるということです。しかしわたしたちはこの事実よりも「神の子 対 悪魔」という「正義対悪」の関係性に落とし込み、悪魔が主イエスを試し、主イエスは見事悪魔を退けることができました!わたしたちもこれからそうした誘惑に負けないように、主イエスに倣いましょう!と考えてしまいがちです。もしも主イエスの受難の時に「正義対悪」という明確な対立関係があったならば「自分の命を奪おうとする人」を撃退する方が示しつきます。しかしそうはなりませんでした。主イエスを殺そうとする人の存在は、キリスト者にとってみれば悪そのものですが、彼らに大いなる罰があったわけではありません。人の目に悪と映るような存在も、すべては神の救いの計画の内にあるということです。これが最も重要な視点であると思うのです。このことを主イエスは全て知っており、神の計画も神の言葉も真に理解していたからこそ、その救いの御業を阻む存在に対して「退け」と言ったのです。すべては救いの成就のために。
 聖書には主イエス・キリストという完全なる正義が存在し、その存在があれば悪という者は存在し得ません。しかし私たちの身の回りには悪が蔓延っています。私利私欲にまみれ、自分中心に全てを動かそうとする人。聖書の御言葉を自分勝手に解釈してしまう人も世の中にはたくさんいます。それぞれがわたしたちを試みたり誘惑を持って来たりします。心乱され、平穏な時が送れない時もあります。今は人がこの世を支配している以上仕方がない事なのかもしれません。ですが神の子イエスはわたしたちのために、再臨すると約束してくださいました。十字架での死を経てもなお、その約束を与えてくだいました。悪を退けわたしたちを招いてくださる主イエスが、わたしたちの心の拠り所であるのです。悪に負けないことが信仰ではなく、その悪を退けわたしたちを守ってくださる主イエスと神を信じることが信仰の本質であるのです。人の世にある悪は主の栄光の前では何の意味も成しません。それほどまでの圧倒的な祝福をわたしたちはいずれ与えられるのです。だから今目の前にある大小様々な思い悩みや悪を恐れず、神に全てを委ねて歩んでいきましょう。

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